アンダーグラウンド・ハイドアウト

やりたいことをのびのびこそこそと

(チョモと)僕は柵の中

 少しでも余裕がないと、自分のことだけに必死になってしまう。大したこともしていないのに、自分の行動だけで精一杯になってしまう。

和みたいと思い点けたTVは全くリアリティに欠けていた 
そんな中人が死んでいく映像を見たが 
自分と対峙できないオレにそんな映像と対峙することはできない

through your reality / Qomolangma Tomato

 自分の行動に夢中になることは、周囲の他人に迷惑をかけてしまう。そのことは頭では理解していても、実際に自分の行動に必死になっているときには自覚できない。視野が狭くなっているときは、視野を広げる努力が必要なのに、視野が狭まっていることすら気づけない。

考えの違う人達か
気の合う駄目なやつの集まりか
フェイクしていく似ているイメージ
ステレオタイプをダウンロード
フェイクしていく似ているイメージ
オマエの頭の中の中まで

surface noise / Qomolangma Tomato

 少しでも気を許せる場所や環境に身を置くと、すぐに甘えてしまう性格が良くないのかもしれない。自分が他人に心を開くまでかなり慎重になるタイプなのだが、一旦この人には気を許せるなと思った人にはかなりダラけた接し方をしてしまう。

ぼーっとするのが身に染みる
大げさな嘘で歪める
無垢ではない時間と接してる
粗削りな毎日にかすんでる

無垢ではない / Qomolangma Tomato

 相手を信頼していると言えば聞こえが良い。ただ、喋るときに「これだけでも話が通じるだろう」と要点を端折ってしまって話がうまく伝わらないことが頻繁にある。

いい加減な人間がいい子に育っても仕方がないのかな?

深夜徘徊 / Qomolangma Tomato

 もはや端折るだけでなく言葉を用いず、態度で主張をし始めたら終わりだ。不機嫌になって周りの行動を矯正させることは権力だ。実績や信頼を伴わないのに加えて、反比例的に人間性が地に落ちてく。これは気を付けないと本当にやってしまいそうになっている。

フラストレーションのストックはもういっぱい
やることなすことうまくいかなかったのは
自分らしさを還元する手段の
ただの僕はネタ切れだったにちがいない
悩みの種を植え込んでも心が晴れないと芽生えない
違いをくれよ 何か違いを僕にくれよ
有名な芸術家みたいに適当な生活がしたい

ネタのないパブリック / Qomolangma Tomato

 しかし、十全な情報を伝えても話を理解してもらえなかったり、はなから違う方向に話を曲げられたりすることもある。単純に理解能力がなかったり、文脈を取り違えていたり、反発する関係性にあったり、いやがらせだったり、記憶力が足りていなかったり、場面によって理由はさまざまだが、お互いに納得のいくコミュニケーションがとれることは珍しいことなのかもしれない。(過去にハーバーマスのコミュニケイション論を読んだためあくまで「そんなことはない」という立場だが、ラフな本音ではそう思っている。)

恋してたい 楽してたい
車の前を横切ってやりたい
力なきオレのこの叫び

商店街 / Qomolangma Tomato

狂ったようなオレの感情は
ショーウィンドウを叩く!

商店街 / Qomolangma Tomato

 自分が話をしているときに、自分の思う方向に話題の展開や他人の興味を向けることは、技術の必要なことなのかもしれない。話術・テクニックとしてまとめられ、書店に平置きされているのかもしれない。それでも、自分のやりたいこと、話したいことだけをどんな場面でも貫き通すのが「よいこと」なのかというと、やはりそうではないはずだ。満足度や幸福度は高いかもしれないが、それはあくまで自分の尺度であって、その行為が相手や周囲にどれだけ迷惑を与えているのか考えないといけないはずだ。

どこに行こうか迷ったけれど
ヘッドフォンあるから気にしない

jyara jyara / Qomolangma Tomato

 すなわち、自分のやりたいことと、それを貫いたときに他人に与える影響を天秤にかけたうえで、他人に合わせなければいけないと総合的な判断をする機会においては、そうすべきだということ。これを理解しているのとしていないのとでは行動指針が変わってくる。そう感じた。

かさばった弱みをリセットする
ラインナップする人たちだよ
感情をドリップさせた言葉
ドレミファっとそれを歌に乗せる

君は陥った 心から遠く
泣いたりするのは奴らの言う通り

蒸発のイメージ / Qomolangma Tomato

 そして、なんでも自分のやりたいことを突き通すのではなく、ある程度のところで「見切りをつけて自分の欲求を押さえること」が大人になるということなのかもしれない、と感じた。

雑念ただならぬ人が歩く
欲しいものお前は手に入らない
もうどうでもいいや
どうでもいいが 何とかしないと

capacity / Qomolangma Tomato

 他人や周囲の雰囲気に押されて、半ば同調圧力で自分の本心からやりたいことが叶わずに行動が制限・矯正されることがある。そんな柵(しがらみ)から抜け出したいという気持ちは構わないが、実家から出てそれを叶えたいま、柵の中で周りの期待に応えていい顔をして行動することも、ちっぽけな個人単位ではなく共同体単位で考えれば必要なことなのだと、考えた。

open.spotify.com

散在する死について

 

 ここ最近ずっと転職活動をしているのだが、自分が新卒だったころも就職活動と言うのはこんなにもヘビーでタフでストレスフルなものだったかな、と痛感している。

 新卒時の就職活動と違って、中途採用の就職活動は、人事が手厳しい。新卒時の就職活動のノリで受け答えをしていると、曖昧なところは厳しく突っ込まれる。また就労条件や環境、報酬などの認識の相違がないか擦り合わせが丹念に行れる。これは無駄な時間をお互いに消費しないようにするためではあるので、変に何度も面接を経験させられる新卒時の就職活動とは異なって効率的ではある。しかし見限られる経験が続けざまに起きるので、精神的には厳しいものとなる。

 新卒時の就職活動についてツイッターで誰かが「好きでもない相手に告白をしまくるような感覚」と評していた。これにはとても共感するが、中途採用の就職活動は時間もないので「好きでもない相手」などには告白しても徒労なのだ。誰に告白したいのか明確にしていないと、告白中にフられてしまう。そのときのメンタルのエグられ方と冷や汗の量は尋常ではない。

 

toyokeizai.net

omotenashi.work

 

 「就活っていうのは、試験とは違って何が基準で合格と不合格が分けられるのかわからないから、不合格にされたら自分の存在じたいを否定されるような感覚になる」と父親に言われたことがある。この言葉が心のどこかに居座っているからなのか真理を突いているからなのかわからないが、転職活動を想定に反して2ヶ月も続けている自分の現在の精神状況に符合している。
 まあつまり、単純に、なんとなく、「死にたいなあ」と思う頻度が高くなった。手応えのまったくなかった面接の後なんかは特に。

 もともと落ち込むときはとことん落ち込むタイプではあるし、ダウナーな気分を(いまで言う)”鬱ロック”を聞くことで地の底まで気持ちを突き落とすタイプではある。劣等感も非常に強く(劣等感に関して考えていることはいつかブログに残すつもり)、自分なんて不要な存在だなと感じる瞬間は人生で何度もあった。父親に似て短気で神経質だがそれを人前で隠す努力は惜しまず、細かい所にこだわる完璧主義なくせにおせっかいで行動に移すまでが遅いLate Bloomerなところは、自分でも生きづらいだろうなと評価できる。

 ダウナーな気分になりたいときに聴くアーティストと言えばもっぱらsyrup16gだ。syrup16gの曲は布団にくるまってうずくまっている自分を暗闇に連れてってくれるし、うろうろ歩いているときは隣で並んであてもなくついてきてくれるし、高い所に立ったら突き落としてくれるし、ひとりでどこかに行ってしまうこともある、そういった音楽だと思う。自分の血液にはシロップが16g以上は流れている。勝手に代弁させられる五十嵐も気の毒だろうに。

天才だった頃の俺にまた連れてって
いつの間に
どこで曲がったら良かった?どこで間違えた?
教えてよ

 

open.spotify.com

 音楽と言えば、先日発売されたPhum Viphuritの2ndアルバム『Greng Jai Piece』の4トラック「Tail End」の最初の一節も美しく共感できる。

I don't want to die feeling like
I wasted my life away
But I wake up feeling wasted everyday.
That's what John said, I kept him company.
He's drowning in mysery, he drags on a cigarette
but all he tastes is regret.
(訳)
人生を無駄にしたように感じて死にたくはない
でも目が覚めたら毎日がむなしい
それはジョンが言ったこと 僕は彼と一緒にいた
彼は惨めさに溺れ
タバコを一服吸う
でも彼が味わうのは後悔だけ

 

open.spotify.com

 新しく新宿の歌舞伎町タワーの地下にできたZepp Shinjukuで行われたCHAIのフェスにPhum Viphuritが出演するということで先日観に行った。自分が好きになって初めての生プム。思っていた以上に背が高かった。謙虚そうに何度も高い背をぺこぺこ下げてお辞儀していたが、ライブ自体はとても盛り上がっていた。結構おとなしめの曲も多いしフェス自体アウェイの雰囲気だったのに、フロアはかなり盛り上がっていた。
 プムの前はThe 1975の来日公演も観に行けたし、5月はsyrup16gのHELL-SEE発売20周年記念ツアーに参加予定だ。なんならMIKAのチケットも余っていたら観に行きたい。Ginger RootとHarry Stylesを逃したのは痛かったが、その前にはCigarettes After Sexを観に行けたのは良かった。最近だとAWA展(ウェス・アンダーソンすぎる風景展)も観に行けた。
 さまざまな文化的イベントに参加しやすいのは、都会ないし都内に住んでいる特権だと感じてきていたが、いかんせん自分の本当にやらなくてはいけないこと――働いてお金を稼ぐことと、その環境に身を置くために就職活動をすること――を終わらせない限りは、心の中にさざなみが立っている気分になる。たぶん以前もこのブログに似たようなことを書いたが、しなくてはいけないことが慢性的にある状態で他のことをすることが苦手だ。睡眠すらできなくなってしまう。

 だからと言って、就職活動には前向きにポジティブには取り組むことなんてできないのだ……。

何もしないない人生なんて、ただ生きてるだけの命なんて、緩やかな死と同じだ。

note.com

 しなくてはいけないこともできず、何もなしえずに日々を過ごしてしまう。これが自身への失望を生み出し、連鎖する。未来に対して、ただぼんやりとした不安を抱くことになる。

誰もまだ自殺者自身の心理をありのままに書いたものはない。それは自殺者の自尊心や或は彼自身に対する心理的興味の不足によるものであらう。僕は君に送る最後の手紙の中に、はつきりこの心理を伝へたいと思つてゐる。(中略)少くとも僕の場合は唯ぼんやりした不安である。何か僕の将来に対する唯ぼんやりした不安である。

www.aozora.gr.jp

 

「人生に絶望して死にたいが、自殺は無理だから死刑になろう」

と考えた輩もいたが、そんな無理筋は通らないこともわかってるくらいにはしっかりと理性が地に足を付けている。

「全ては運命だ。運命は変えられない。未来は既に決められている。私は、自分の決められた運命を歩み、実行する。この宇宙が誕生した瞬間から、私の運命はこうなると決まっていたのだ。全ては運命だ!!私はこの宇宙で最も正しい答えを知っている。私が正義だ!私が法律だ!私の言葉が正しい!私の行動が正しい!私以外の人間は皆、間違っている」

 

www.shinchosha.co.jp

 しかし長らくしっかりと勉強をしてきた自分には、合理的な意味で「自分ひとりが死んだところでなにも変わらない」という思想が根付いていることも否めない。

「クリスマスですね……」真賀田四季は顎を上げ、何もない天井を見上げる。「ツリーにランプが灯っているわ。赤とオレンジと黄色と青と緑。とても小さなランプ……。それが、点滅している。あれは、ライトが光ると、自分の発熱で変形して接点が離れるの。それで、ライトは消える。消えると冷めて、また接点が戻る。そしてライトがつく。単純だけれど、面白いでしょう?ブザーもベルも同じ原理ですね。西之園さん、小学校で習ったわね?」
「ええ、知っています。それが、何の……」
「同じ原理なのに、あるときは連続音として、あるときは優雅な点滅として認識されます。点滅の周期が短くなれば、蛍光灯のように、一定の明かりに見える。それでは、私たちの生命はどうかしら?」
「生命?」萌絵はきき返した。
「生命もまた、点滅を繰り返しているのよ」
 真賀田四季はゆっくりと言った。
 彼女は青い目を閉じ、静止する。
「生きたり、死んだり、の点滅を繰り返す……」
 赤い口もとだけが、僅かに動く。
 とても僅かに……。
「ずっと、生きている、という幻想を、抱きながら……」

有限と微小のパン森博嗣(2001),講談社文庫, 756-757

 差し迫る死の気配は、さながらドクター・フーに出てくる嘆きの天使だと、最近久々に動画を観る機会があって感じた。無視することのできない「死」。目を背ければ、知らぬ間にすぐそばまで近づいている。瞬きしてはいけない。

youtu.be

scp-jp.wikidot.com

 学部時代のゼミの先輩の一人に、卒論のテーマをジョルジュ・バタイユにしていた人がいた。最後にゼミ生で飲み会を開いたその帰り道に、自分がその先輩に影響を受けて図書館で数冊バタイユを読んでみたことを伝えたが、ピンと来てない様子だった。先輩が研究対象にしていたのは『内的体験』における「内的意志」の記述であり、「恍惚体験」ではなかった。自分が図書館で手にしたのは『エロスの涙』であり、サディズムとしてのエロティシズムと宗教的な恍惚を同根のものとみなすという論理と、その根拠として結論を代弁させるために最後の章に呈示された清朝凌遅刑の写真に衝撃を受け興奮しただけであった。アヘンを注入されて簡単には失神しないように調節されながら身肉をじわじわとそぎ落とされていくその写真はしばらく自分の脳裡に焼き付き、その写真がジャケットに使われているというジョン・ゾーンの『凌遅 Leng Tch'e』を知ることにもなった。あの先輩はいま何をしているだろうか。

bookmeter.com

 

 ライターのギャラクシーさんがジモコロに書いた記事によれば、若いうちから終活に向けた「エンディングノート」を書いても問題ないらしい。エンディングノートは、自分の死後の処理を伝えるだけでなく、遺される人への思いが乗せられるものだという。

「終活って絶対若い時からやっといた方がいいですよね。自分が誰にありがとうと思っているのか、若いうちから自覚して生きたほうがいいと思う。僕もエンディングノート、書きます!!」

www.e-aidem.com

「万物は流転する」と説いた古代ギリシアの哲学者ヘラクレイトスは「誰も同じ川に二度入ることはできない」と表現した。

www.bobdesautels.com

 つい最近も、女子高生2人が飛び降り自殺を配信したという話題を目にした。もちろん動画も見てしまったが、”その一歩”を実際に踏み出す勇気は自分には無いなと思ってしまう。それは良いことであると同時に、何かのはずみで越えてしまうこともあるかもしれないと寒気を覚える日々があったのも事実だ。高い建物から外を見下ろすとき、駅のホームで電車を待っているとき、自宅で調理をするために包丁を握るとき。

open.spotify.com

youtu.be

 凌遅刑の写真も、自殺配信も、もともと高い自分の血圧をさらに高くする。頭の中がガンガン言ってクラクラするのに、見るのを止められない。死ぬ瞬間が何らかの形で残されているのをみるのは、命の尊さと人体の不思議さと生死という不可逆性を一気に目の当たりにすることになるからショッキングなのだろうか。(ハレではなく)ケと見なされる死がメディアでは抑制されるにつれ、SNS上で垣間見える戦場の映像や自殺配信は、一層殺傷性が高くなっているのかもしれない、と思った。

ja.wikipedia.org

www.meisterdrucke.jp

 書きたかったことはこんなところだろうか。構想を練っているうちに希死念慮を克服する愛情を再確認し、ストレスも緩やかなものになったため、多少はマシになっていた。こんな殴り書きは構想なんか練ってしまってはいけないのだが、どうも関係しているように見える欠片を見つけるとどれも拾い集めて一つのつながりにまとめたくなってしまうのだ。
 こんな完璧主義のような性格が良くない方向に導いているというのに。

『The Car』世界最速レビュー(素人)

 

https://twitter.com/beatink_jp/status/1578265949932691456?s=46&t=UEKpbae3u0so-9yNizrRww

 

 幸運にも、10月21日に発売されるArctic Monkeysの新譜『The Car』を世界最速で(しかも超高音質な環境で)聴けるというプレミア視聴会に当選した。しかも東京は渋谷(20時)・新宿(21時)の2会場からランダムで選ばれるのだが渋谷会場に当選したため文句なしの世界最速である。

 こんな機会は滅多にないと思い、音楽雑誌のライターでも音楽オタクでもない一般音楽ファンの一人である自分が素直に感じた感想(よく言えばレビュー)を書いてやろうではないか。

 発売されて世界中のあらゆるファンが聴き始めたらこんなレビューすぐに埋もれるんだから、専門的で詳細な分析はそちらの方々にお任せして……。

 

 会場はヒューマントラストシネマ渋谷。この映画館はシアター1に「odessa」というすごい音響が備え付けられているらしい。そのすごい音響で大音量で最先端のロックが聴けるのだからそれだけでわくわくする。

https://ttcg.jp/human_shibuya/topics/2021/10010000_15971.html

f:id:asymmetrhythm:20221020200151j:image

 時間が近づくとぞろぞろと今日の日を待ち侘びていた老若男女のファンがフロント付近に集まっていた。当選画面を係の人に見せ、限定ポスターを受け取ると、抽選ボックスに手を突っ込みその場で席が決まるシステム。高級感のある赤いソファが200弱ほど並んだ部屋に踏み込み、指定の席に座ってその時を待つ……。

f:id:asymmetrhythm:20221020200136j:image

f:id:asymmetrhythm:20221020220502p:image

 

T1 There'd Better Be a Mirrorball

 暗転してすぐ、ベースの鋭いグリスと共に既に聴き馴染みのあるオルガンが流れ始める。今までしっかり意識して聞いていなかったのだが、この曲のライドシンバルはかなり特徴的だ。絶妙なタイミングで抜けるライドと、一定のリズムで流れ続けるオルガンのリフが生み出すグルーヴでゆったりと聴いていられる。裏拍のオルガンがいいアクセントになっている、今後もスタンダードになるであろうリードトラック。

 

T2 I ain't Quite Where I Think I am

 これも前日にライブ音源がYouTubeにアップされていて予習済みだ。ただ収録音源を聴くのは初めて。はじめのAh〜というコーラスはめちゃくちゃ複雑。まるでA Hard Day's Nightの最初のギター音かのように、複雑でありながらその和音でなければいけない完璧なコーラスから始まる。オートワウかましてあるようなアレックスの弾くギターリフはファンクを思わせる。そしてこの曲、コンガみたいな音が絶妙に入っている。ジャズとファンクとオルタナが融合した名曲。

 

T3 Sculpitures of Anything Goes

 ここからは本当に初見の曲。「なんだこの曲は」の言葉に尽きる。映画館で聴いていたからか、IMAXの映画を見ているかのような感覚になった。シンセベースなのかキーボードで作ったのかわからない重厚でどっしりした音がドーンと鳴り響く上に淡々としたボーカルが乗せられる。それまでのアナログな音作りとは異なって電子的にトリミングされたようなベース音に、段々とドラムやデジタル処理されたギターがユニゾンする。「TENET」のサントラにでもあったのではないかと思う緊張感のある現代的な曲。

 

T4 Jet Skis on the Moat

 いきなりタイトルが歌詞にあった。雰囲気としてはT2と似ていて、ワウのかかったギターが特徴的な6/8のワルツ曲。ジャズ、ファンクだけでなくシャンソン的な趣のある曲。

 

T5 Body Paint

 MVが発表され初めて聞いた時は壮大さにビビッたものの、2回目以降は泣けるほど感動した大名曲。この音響で聴けて幸せ、と思った。改めて聴くと、意外と小さくハットがリズムを刻んでいて潜在的にノれる曲だった。オアシスもストロークスもクイーンもビートルズもいる、アークティック・モンキーズがロックバンドたる所以を決定づけるマスターピースだと、個人的に思う。

 

T6 The Car

 この辺りからT3の異常さに気づく。やはり今回のアルバムはストリングスとオルガンで基本的にアレンジされていて、豊かな表現が少ないリズム隊に乗った管弦楽団とボーカルで引き出されている。T6も同様で、アレックスの芳醇なボーカルを楽器隊が支える構造のシャンソン・バラード。

 

T7 Big Ideas

 メジャーセブンスコードに乗せられて展開する崇高なバラード。マイナーコードに移ったと思えばメジャーに落ち着いたりと、安心して聴くことのできるゆったりした曲。というか、アルバムを通してこういった曲が多い気がする。退屈という意味ではなく良い眠りに着けそう。

 

T8 Hello You

 この曲もコンガが入っている。そういうモードだったのかな?シンセではなくエレピ、もしくはハープシコードのリフが何度も曲中に出てくるアクモンらしい曲。終盤の繰り返しでは裏と表が入れ替わる、少し難しいリズムパターンになっていた。

 

T9 Mr Schwartz

 アコギのアルペジオとブラシのドラムで構成されるシンプルで静かな曲。途中からエレピやストリングスが入ってきて壮大なオーケストラになる。正直こんな曲をアレックスが書けるなんてびっくり。

 

T10 Perfect Sense

 思えば終始オーケストレーションのすごい1枚だった。ラストトラックはストリングスがリズムを取り、アコギがコードを奏でながら、別のストリングスの生み出す美しいメロディを支える。オアシスのWhateverのような極上のバラード。

 

 通して振り返ってみると、どの曲もストリングスのアレンジがすごい。この全ての楽器のスコアをアレックスが手掛けたのだとしたら相当すごい(きっと違う)。ただ、アレンジして壮大で豪華な作品になる曲の大元をライティングしたのは紛れもなくアレックス・ターナーである。リフやリズムパターン、ベースライン、コード進行などそこかしこにアークティック・モンキーズらしさは残っており、しかし進化/深化した新たな一面もしっかり確認できた。もっと聴き込めばより一層一曲一曲の、そしてアルバム全体の魅力や素晴らしさを理解することができるのであろう。

 同じ時期に発売された、"車"の上に人が乗ったジャケットのアルバムのようにポップでキャッチーではなくとも、重厚でリッチなロックンロールバンドの進むべき道筋をどしどしと進んでゆく宇宙服姿の4人の背中が見えるような、そんなアルバムでした。

 

 全曲の再生が終わり会場の明かりが点くと、ぞろぞろと階下のグッズ販売コーナーに向かって行列ができた。事前に品揃えをチェックしていたため迷わず購入列に並んで金額も準備し、日本語帯付きLPをゲットした僕は購入者限定抽選でC賞のステッカーをゲットしてほくほくなまま会場を後にしたのだった。

f:id:asymmetrhythm:20221020220442j:image

「山村の観光開発による生業と生活の変容」を読んで

 桝潟俊子の論文「山村の観光開発による生業と生活の変容:福島県下郷町大内・中山地区を事例として」(1998)を読む機会があったので、まとめながら読もうと思う。

 もし本論文を読もうとしている人がいたら参考になるかもしれないが、私は自分なりに咀嚼して雑多な文章にまとめているだけなので、著者の真意を正しく理解するには実際に本を読まれることを強くお薦めする。これは自分のための備忘録である。

 

 引用:桝潟俊子. "山村の観光開発による生業と生活の変容: 福島県下郷町大内・中山地区を事例として." 淑徳大学社会学部研究紀要 32 (1998): 149-177.

 なおGoogle ScholarからPDFをダウンロードして閲覧することができる。

 

 以下、論文を読んで。

 

 概要。

 農林業を基幹産業として生産・生活を組み立てることが困難になった農山村では、地域活性化のために観光開発に乗り出すことを余儀なくされている。この観光開発と農林業を組み合わせた自治的・環境保全的な農山村再生は可能なのか。福島県下郷町にある大内地区と中山地区で現地調査を行った。宿場町だった大内地区はその観光資源に気付き新たな生業として観光開発を行うが、従来の農林業を含む地域文化の継承はどうするべきなのか。中山地区は観光資源に乏しく過疎化と高齢化が進み、生業となるものが失われつつある。豊かな自然を資源として観光開発に乗り出すべきかどうか。

 

 以下内容。

〇農山村の問題

・中山間部の農山村は、農林業を基幹産業として生活するのが困難に

;1986年 ウルグアイ・ラウンド合意に基づく米など農産物の輸入自由化の促進

 →国内工場の海外移転現地生産によって工場の誘致も困難に

 →都市住民の余暇需要拡大を背景とした大規模リゾート開発計画

 →バブル崩壊にともなう中止

・それでも農山村は観光開発に期待せざるをえなかった

;「四全総」において農山村は、都市住民のレジャーや観光、安らぎの場としての機能をもち、かつ定住の場としても成り立つ社会経済構造をもつことを求められた

 

下郷町の問題

・過疎化

 1955年の合併以降、過疎対策のため各種事業の導入が図られる

 ;1981年 工場誘致条例を制定、電子部品製造企業等を誘致 →しかし人口減少は進行

・地域振興計画:「三全総」に基づいて1984年策定(1995年目標)

 「地域産業を高めながら、定住環境条件を整備し、開かれたふれあいの里を」つくる

 1988年会津フレッシュリゾート構想がリゾート法第1号に承認、大内中山地区が重点整備地区

 ;観光産業への期待の背景に、町の産業構造における農業地位の低下、商業機能の停滞

 

〇リゾート開発の行方

下郷町「大内・中山地区」のリゾート開発

 ・スキー場 ゴルフ場 スポーツ施設(テニス、アイススケート) ホテル コテージ 等

  ;乾草刈り場として使われていた共有地や財産区である山林が計画地に含まれていた

 ・大内地区:消極的;中山地区の開発がかかわっていたため仕方なく積極的に

 ・中山地区:積極的;炭焼きや林業が斜陽となりスキー場建設を望んでいた

 ⇒東宝グループと下郷町によって第三セクターの会社が設立

・建設計画の経過

 ・下流域の住民から汚染水への懸念により自治体等に開発中止の申し入れ

 ・防災施設の予期以上の拡大に伴う計画の見直し

 ・バブル経済の崩壊

 →1994年東宝グループの撤退(これまでの経費約10億円を負担)、会社は休眠状態

 ・町は第三セクター方式の開発を断念しておらず、グリーン・ツーリズムの潮流に乗せた農村滞在交流型リゾートとしての村づくりを構想している

 

大内地区について

・かつての会津西街道の宿場町(大内宿)と県道沿いに集落が形成(総戸数:50)

・大内宿は国選定「重要伝統的建造物群保存地区」で年55万人の観光客を集める

・年少人口(20歳未満人口比率)は28.6%と高く、嫁不足問題はない

・ほとんどの世帯が直系性家族周期をもつ家族形態;既婚の子供と同居している世帯は7割

 

中山地区について

・西側に緩やかな山をもち県道沿いに集落がある(総戸数:22)

・町の中心部まで車で20分要するため道の拡幅整備や拡張工事を求めている

・老年人口比率が35.0%、年少人口比率が15.0%と低く高齢化が進んでいる

・直系家族タイプの世帯が多いが、後継者となる既婚の子供と同居している世帯は半数

;半年近く雪に閉じ込められ、高齢化と過疎化が進む中山地区の人々は、若者が帰ってこれる地区を開発するためにスキー場建設など開発・振興策を町に期待している

 

大内地区の生業の変化

江戸初期 :会津西街道の宿場町として栄える

1880年代 :新たな街道の開通から宿場町機能を失う→炭焼きや木羽板割をして暮らす

明治末期~大正(1900-20頃):葉タバコの栽培、養蚕が村の生業の柱になる

            →しかし冬期は出稼ぎをしなければ生計は成り立たなかった

1972年頃~:葉タバコが高原大根に切り替わる;土質と気候が適合した

     →しかし連作障害を引き起こし栽培されなくなった

  同時期:大川ダム建設に伴う新たな賃金獲得機会の発生;労働力、炊事など

     →荒稼ぎできるようになり「百姓仕事が馬鹿らしく見える」、

      基盤整備によって畑が悪質化 ⇒農業意欲の減退

1980年頃~:リンドウ栽培を始める←村の若い層のなかに率先して導入する存在

     →大内地区の基幹作物に;「結」の復活も見られる

1960年以降:高度成長に伴い農家数は減少、90年には60年の1/3に

     ;民宿などの観光事業や周辺の市に通勤する人口が増加;耕作放棄の増加

1996年現在:耕作している世帯のうち4割が自営農業で、専業農家は1割程度

      農林業と観光業が主な生業で、周辺地域での就労と組み合わせて生計を立てる

     (観光業が生業として成長しつつあるが地区の農業の需要も増えるのでは…)

 

大内地区民の農業に対する姿勢

 ・「農業を後継させたい」と考えるひとが半数を超える

 ・「山林をもっている」ひとが9割を超え、そのうち3/4が造林やきのこ栽培に利用

 

中山地区の生業の変化

1880年代:大内地区と同様;新しい街道の開通で人の行き来が減少

     →焼いた炭を里に売り、米や魚、衣類などを買って帰る生活

1914年~ :葉タバコの栽培を始める;当時20戸が行い、現在も2戸が続ける

     ;炭焼き、インゲンやトマト、大根栽培も行われたが葉タバコが残った

     ;1960年頃 酪農が導入されたが続いていない

     ;基盤整備がされていないためリンドウなどの花卉は栽培されない

     農業で生計を立てているのは葉タバコの2戸のみ、4割は自営農家

;高齢化が進み、中山地区の農業は「10~15年もてばいい」と深刻な状況

1996年現在:13/20世帯が周辺地域に出勤しており、農外収入への依存度が高い

 

中山地区民の農業に対する姿勢

 ・「農業を後継させたい」と考えるひとはゼロ;後継者にあてがない世帯が多い

 ・林業(杉の造林が盛んだった)も80年代からほとんどされなくなったが、

  山林を利用して収益をあげる計画をしている世帯も存在している(きのこ栽培など)

 ;農林業のみで生計を立てるのは困難で、地区外に就労の場を求めている

  →道路の整備を強く望んでいる

 

大内地区における観光開発と農林業

・民宿経営じたいはダム建設に伴って1971年から始まっているが、

 観光資源としての「大内宿」の魅力は観光客が増えるにつれて気づき始める

 ;民宿は首都圏の中学校の農業体験の受け入れ窓口やサークル活動に利用される

・「観光地化すれば食べていくことができる」と見通しているひとが多い

 :1996年3月の調査で民宿や食堂などを「今後始めたい」と12/30世帯が答えている

  「営業の拡大、経営の変更」を考えているのが4/15世帯

 :観光客の増加が地域経済の振興や人的交流の拡大に寄与すると考えている調査結果

 

・観光開発に必要な「建造物の保存」と「景観の保全

 ・計画では「伝統建造物群の保存・見学利用にとどまらず、歴史的に培ってきた生活文化を生きたかたちで保存・伝承しながら地場産業の振興と観光利用の共存を図る”ふるさと地域博物館”として整備を進める」とされている

 ・しかし調査では田畑等の農地や自然景観の保全に関して住民は消極的

 ・区域を設定しテーマ館や専用の田園風景、マーケットを整備する「超ミニ・テーマパーク」としての開発は本当の意味での生活文化の継承につながるのか?

・地元の農産物を販売して利益を得ることが考えられている

 ;大内宿で売られている土産品のほとんどが業者から仕入れた民芸品や雑貨だが

  自家栽培の野菜などを販売したい/していると考えている家も存在

 ・一部の民宿や食堂では地元の農産物が食材に用いられたり土産として売られている

⇒景観を保全しながら観光開発を行うには、持続性をもった生業としての農林業地場産業を起こしていく必要があるのではないか

 

〇定住意識と生活設計

大内地区:リンドウ栽培と観光開発、周辺地域への就労から過疎化は起きていない

 ・(比較的)定住意識がやや高い(82.2%)

 ・暮らしやすさ:自然や食べ物、人情味、新たな観光業の存在

 ・困っている事:観光の導入に伴う生活環境の悪化、文化財である家屋の管理や修復

         村の行事や祭り、共同作業への負担感

 ・生活設計:観光事業と農業経営が組み合わされば農業・農産加工が今後も重要な生業に

  ;3割:勤め先収入、民宿や食堂など 二つの兼業を考えている世帯も存在

   15%ほどが「農業や農産加工を中心に生計を立てていきたい」と回答

中山地区:農林業が衰退し、過疎化と高齢化が急速に進行

 ・定住意識はかなり強い(80.0%)

 ・暮らしやすさ:豊かな自然

 ・困っている事:交通の便の悪さ(深刻)

 ・生活設計:生業となるようなものがほとんど見当たらない状況

  ;勤め先収入と年金収入で生計を立てる予定の世帯が7割

   農林業で生計を立てたいと考える世帯は2世帯のみ

 →リゾート開発への期待 →頓挫

;「中山地区の住民も地区の自然こそが財産だということに気付き始めた」

 :まず地域の環境保全の担い手を確保すべく基幹産業としての農林業を回復すべきでは

 

 おもしろいと思った点。「生業」という単語に、「伝統的に長く続けられてきたその土地特有の生活の術」という印象を抱いていたが、時代の変遷によって生業となるものは変化し続いているものが良いとは限らないし良いものが続くとも限らないことを具体的に知ることができた。

 

 疑問点は、今回の論文では2つの隣接した地域の生活と生業の変化を比較しながら紹介されていたが、2つの地区間での干渉(人の行き来、資源や情報の共有、商業的格差によるいがみ合いなど)は無いのだろうか?また、困窮している地区同士が手を組めば上手くいく計画も考えられると思うが、実現されにくいだろうか?今回は福島県下郷町の2つの地区に焦点を置いて、観光産業と農林業の互助的な発展が可能性として挙げられていたが、日本中(あるいは世界中)の過疎地・高齢化の進む奥地で同様の「自然豊かな景観を生かした観光産業と農林業をどちらも生業とする」やり方が行われた場合、遍在してしまうので観光産業が上手くいかなくなるのではないか/先行きが明るいとは思えない計画ではないか?

 

<資料>

下郷町観光協会

http://shimogo.jp/

会津の観光スポット「大内宿」|大内宿観光協会

http://ouchi-juku.com/

 

f:id:asymmetrhythm:20220311220505g:plain

出典:「姉妹都市福島県南会津郡下郷町西東京市Web https://www.city.nishitokyo.lg.jp/smph/siseizyoho/syokai/simai_yuko/simai_fukusima.html

 

『コミュニケイション的行為の理論(上)』第一章 第三節「四つの社会学的行為概念における行為の世界連関と合理性の局面」(部分)を読んで

 ユルゲン・ハーバーマス 著の『コミュニケイション的行為の理論』未來社、河上倫逸・平井俊彦(共訳)(1985-1987)を読む機会があったので、まとめながら読もうと思う。なお、まとめたのは上巻の第一章 第三節「四つの社会学的行為概念における行為の世界連関と合理性の局面」のうちの第三項「『コミュニケイション的行為』概念の暫定的導入」部分(143ページ19行目~152ページ17行目)である。

 もし本書を読もうとしている人がいたら参考になるかもしれないが、私は自分なりに咀嚼して雑多な文章にまとめているだけなので、著者の真意を正しく理解するには実際に本を読まれることを強くお薦めする。これは自分のための備忘録である。

www.amazon.co.jp

↑ちなみにめちゃくちゃ高い。文庫化してくれ。

www.miraisha.co.jp


 

 第三節「四つの社会学的行為概念における行為の世界連関と合理性の局面」内の第三項「『コミュニケイション的行為』概念の暫定的導入」を読んで。

 

〇「コミュニケイション的行為」概念の特徴

行為者の世界との連関そのものを映し出す 言語 という媒体がもう一つの前提条件として現れる (cf. 存在論的前提?

・目的論的行為:自分の効果を目指す発話者たちが相互に作用するときに通じる媒体の一つだと評価、志向的意味論の基礎となる言語概念

・規範規制的行為:文化的価値を伝承し、合意を生み出すための媒体だと前提、文化人類学と内容を重視する言語科学で扱われる文化主義的な言語概念

・演劇的行為:自己演出の媒体として前提、「命題的要素の認知的意味と発話内的要素の相互人格的意味は、それらの自己表示的機能のために弱められてくる。言語は様式的および審美的な表現形態に合致してくるのである」p144 ℓ15

・コミュニケイション的行為:完全な了解の媒体として前提、話し手と聞き手があらかじめ解釈されている生活世界の地平から、同時に客観的、社会的、主観的世界のなかの何かに関係し、共通の状況に関する規定を取り扱うことができる、形式的語用論をめぐるさまざまな努力の基礎となっている言語概念

 

・コミュニケイション的行為以外の3つの行為では言語は一面的に捉えられている

←それぞれの行為によるコミュニケイションの類型の仕方がコミュニケイション行為の極端な事例であることからわかる

;各行為モデルはコミュニケイションを……と考えている

 ・目的論的行為:ただ自分の目的を実現することのみを考える人々の間接的な了解

 ・規範規制的行為:既存の規範的同意をそのまま生かすだけの人々の合意的行為

 ・演劇的行為:観衆を引きつけるための自己演出

;3つの行為ではそれぞれ言語の一つの機能だけが主題となっている

(それぞれ発話媒介的効果の創出/相互人格的関係の創出/体験の表示)

;コミュニケイション的行為は社会科学上の伝統を規定するもので、あらゆる言語機能を考慮する

 

・社会的行為がコミュニケイション参加者の解釈の作業に還元され、行為が言語に、相互行為が会話に同一視される危険もあるが、言語的了解は行為の企図や目的活動を相互行為に結び付ける「行為調整のメカニズム」に過ぎない

 

〇「コミュニケイション的行為」の概念の暫定的な導入

⒜自立的行為の性格に関する見解、⒝了解過程のなかで行為者のとる反省的な世界連関に関する見解

 

⒜自立的行為の性格に関する注釈(行為、身体の運動、作業) p145 ℓ18

*命題的内容と相互人格的関係の提出と話者の意図を同時に表現する言語行為の複合性の段階を特色づけたい

ハーバーマスは「分析的言語哲学における規則遵守の概念は狭く捉えられすぎている」という指摘を適切だと考えている

・行為者が少なくとも一つの世界にたいし(だが、つねにまた客観的世界にたいし)それによって関連する行為のみを「象徴的表現」と呼ぶ

;これらの行為と「身体的運動」や「作業」は区別される

;行為のなかで付随的におこなわれるもので、ただ副次的に、遊戯または学習実践に組み込まれることによってのみ、行為の自立性を獲得できる(その運動自体を意図して運動がなされた場合のみ「行為が自立している」と言える?)

 

◇身体的運動について

身体的運動は「行為のおこなわれる基体」であり、行為者はその運動で世界に変化を与える

:「行為は一つの有機体の身体的運動としてあらわれる」

;この変化は因果的なあるいは意味論的な性格を持つ場合がある

・基礎的行為としての身体的運動:ダントーの周囲における論争、身体的運動はそれ自体が本来的な行為であるとする考え方を前提にしている

;複合的な行為は、他の行為の遂行によってなされるという特色がある ハーバーマスはこの考え方を誤りだと考えている

・身体的運動は行為の要素だが、けっして行為そのものではない、技術的または社会的行為規則に従う場合、行為者は運動を付随的に行っているにすぎない

 

◇作業について

その非自立的な行為の性格では身体的運動と作業は同じ

:思考作業と言語作業はつねに他の行為の中で付随的におこなわれる

;せいぜい練習の枠内で自立化して行為となる

:われわれは作業によって計算や命題のような抽象的なものをつくりあげるが、ふつうそれらによって課業や命令といった別の行為をおこなう

・作業そのものは、世界にかかわるものではない;他の行為の基盤としてのみ世界と関わる

;作業でつくられるもの自体は正しさ、規則正しさ、整合性の多少を判断することができるが、行為とは違って真理性、有効性、正当性、誠実性のもとで批判できない

←作業の規則が作業によってつくられたものの生成を説明することに役立ちえないことからわかる ;計算が正しくてもその計算がなぜされたかを充分に説明できない

:この規則に従うことは行為の規則に従う場合とは異なり、行為者が世界のなにかに関わったり行為を動機付ける根拠と結び付いている妥当の要求に定位することを意味しない

 

⒝コミュニケイション的行為における反省的世界連関 p149 ℓ2

・コミュニケイション的行為のばあい、言語はただ、発話者が了解を目指して命題を用いて世界と連関をもつという語用論的視点のもとでのみ、その重要さを持つ

;目的論的/規範規制的/演劇的行為のように直接的な連関を世界ともつのではなく、反省的な仕方で世界と連関をもつ

;このとき三つの形式的世界概念は一つのシステムに統合され、このシステムを共通に一つの解釈の枠として前提して発話者は了解を遂げることができる

→発話者は三つの世界と直接に関連せずに、批判可能な状態で妥当を要求する主張ができる

・了解が行為を調整するメカニズムとして導入されるのは、この相互行為の参加者たちがお互いに掲げる妥当の要求を相互主観的に承認し合うという仕方が行われたときのみ

■「コミュニケイション的行為の概念は、言語をある種の了解過程の媒体として前提し、その過程のなかで参加者たちは一つの世界に関係することによって、相互に妥当性の要求――承認されたり反論されうる――を掲げるのである」p149 ℓ15~

 

〇コミュニケイション的行為の前提

コミュニケイション的行為の前提には、「相互行為の参加者が協力して合理性の潜在力を了解という目的追求のために動員する」ことがある

・了解を目指す行為者の発言に暗黙裡に掲げられるべき三つの妥当の要求 p150 ℓ3

①述べられた言明は真である(言明または存在条件に対する真理性)

②言語行為が 妥当する規範的コンテクストとの関連において正当である(正統に規制される行為とその規範的コンテクストに対する正当性)

③発話者は明白な意図を、その発言されているとおりに考えていること(主観的体験の表明に対する誠実性)

→コミュニケイション的行為の概念によって、今まで社会科学者によって分析されていた行為者と世界との三つの関係が、話し手と聞き手自身の観点から再び認められ、行為者自身によって合意を求めて真理性・正当性・誠実性と照らし合わされる

 

・これらどの了解過程もすべて、文化的にあらかじめ決まっている基礎的了解を背景におこなわれる;この背景知識は全体として問題にはされず、ただ相互行為に参加する人々が自分の解釈のために利用し主題とする蓄積された知識の一部だけが検討される

;相互行為の行われる状況を定義することで、一つの秩序が生まれる。コミュニケイションの参加者は三つの世界のうちのそれぞれに行為の状況のもつさまざまな要素を関連させ、あらかじめ解釈された生活世界のなかでの現実的行為の状況を具体化する。相手の状況の定義が自分のものとはっきりずれがあれば特殊な問題が生じる。

・解釈の課題は、表現方法を検討しながら「われわれの生活様式」という背景のまえで「かれの」外界と「わたしの」外界とが「世界」に照らして相対化されうるし、相互に背反している状況の定義であっても充分にカバーし合えるようなやり方で、他人の状況解釈を自分の状況解釈に関連づけること

;この際の関連づけはエスノメソドロジー(人々の‐方法論)の像に近しい

 

・コミュニケイション的行為モデルでは行為とコミュニケイションとは同じではない

:あらゆる行為概念において目的論的構造が基本的であり、行為者は相互に了解し合い自分の行為を調整することによってそれぞれ一定の目的を追求するもの

←社会的行為の概念はさまざまな目的志向的行為に対してどのような調整を行うかで区別

;心的な効用計算が相互に作用するのか、文化的伝承や社会化によって規制されて価値および規範について社会的統合化の同意がなされるのか、公衆と演技者の間で合意の関係が生まれるのか、協同して解釈する過程という意味で了解が行われるのか

 

・コミュニケイション的行為は、解釈的に行われる了解の行為とは一致しない

:ある行為者がする言語行為を分析するとき、コミュニケイション的行為の調整のための条件については、言明された言葉の意味を理解するために、その言葉が聞き手にはどのような意味をもつかを示すことで説明が可能になる。しかし、コミュニケイション的行為を特徴付けているものは、言語行為によって調整されるが、それに一致するものではない相互行為の一類型といえる。

 

 

読んでから思ったこと。

まず、コミュニケーションというものはどういう目的をもって行われるべきなのか(了解志向的であること)ということを知るだけで、日常的な対話ややりとりを行うときに考えさせられること、意識すべきことがかなり変わった。そして日常のあらゆるコミュニケーションにおける了解過程とそれを疎外する「システム」に気が付くだけで、心の持ちようはだいぶ変わる。そしてコミュニケーションの三要素、「客観的真理性」「規範的正当性」「主観的誠実性」というのは本当に大事だということを痛感したこともある。このことを知っているだけで「納得のいかない主張や言論」に出会ったときの評価基準として武器になる。

ただ、ゼミで議論したときに指摘されたことだが、障碍者のようなひとはハーバーマスの議論においては了解志向的なコミュニケーションをとれない対象とされてしまう。理論に徹した社会学・哲学の一種の運命だが、想定される社会における「人間」がマッチョイズム的な要素を帯びており、その点においては検討すべきである。

好きな動画

飼い主がめちゃくちゃかわいい猫動画

youtu.be

日本一長い私道をもつ企業の公式紹介映像

(追記:宇部興産専用道路)

youtu.be

試合前に握手を拒否したことで不戦敗になったチェスの試合

youtu.be

競技クライミング女子のすごい人の解説

youtu.be

歩道を走ってきた車に気づいてとっさに客を引き留めるバスの運転手

youtu.be

巨大マカロンが力士に贈呈される様子

youtu.be

わざと富士山から滑落する主観映像

youtu.be

割と有名な、「ねじ式」の現代アレンジ

youtu.be

現実世界のNPC

youtu.be

喉に食べ物を詰まらせて呼吸困難になった友だちをハイムリッヒ法で救う様子

youtu.be

裁判所で娘を殺した犯人に殴りかかる父親

youtu.be

このチャンネルは歴史的記録映像が観れて面白い

youtu.be

シートベルトしていなかったバスの運転手が何かのはずみで椅子から転げ落ちてそのまま事故を起こす車載動画

youtu.be

緊急退避所が使われる映像

youtu.be

スマホを操作しながら車を運転するとこういう事故を起こす

youtu.be

自分のみに起こらないからこそエンタメとして消費できる失敗動画

youtu.be

高架の高さが法律で規定される以前にできた陸橋が低すぎて頻繁に事故の起きる場所

youtu.be

Idiots in cars のシリーズは好き

youtu.be

youtu.be

日本だとこのシリーズが充実している

youtu.be

トラックに電車が突っ込む

youtu.be

電車どうしの事故

youtu.be

カーレースのクラッシュは昔からよく見る

youtu.be

youtu.be

youtu.be

youtu.be

船の事故動画はスケールが大きくて良い

youtu.be

youtu.be

飛行機墜落

youtu.be

youtu.be

youtu.be