アンダーグラウンド・ハイドアウト

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10万円全額寄付ツイートに対する「もったいな」発言について――価値観の多様性とフォークウェイズの問題から考える「クソリプ」論

0.はじめに

 TwitterのTLをぼんやり眺めていたら、あるツイートが目に入った。

  政府による給付金である10万円を「推し」である首里城の再建のための寄付金に全額つぎ込んだ旨を報告するものだった。その思い切った行動に様々な反応をした人がリプライをしたり拡散をしたりしていた。

 こういった”バズった”ツイートはリプライの欄まで読んでしまう質なので、例に漏れず確認したところ、そのリプライのツリーの一番上にこの返信があった。

  経験に基づくとTwitterのリプライ欄は一番リアクションの数が多いものが優先的に一番上に表示される。リツイート数62、いいね数530(2020年7月1日午前5時現在)ととても反響のあるツイートであることが窺える。

 おそらくこの「もったいな」の返信がこれほどの反応を得た最大の理由は、「失礼」に思えるものだったからであろう。このツイートに関して考えることがあったので書き留めておきたい。

 

 

1.「もったいな」という意見・価値観が非難されている訳ではない

 私も「なんだこの返信は!」と思った一人である。この気持ちは何だろう。

 「もったいな」ツイートに指摘や苦言を返信しているひとの多くは、このリプライが「自分勝手」「エゴが強い」と感じたようだ。つまり、与えられた10万円を寄付に充てようが好きな物を購入しようが用途はそのひとが決めれば良いわけで、ツイ主が自分の選んだ”推しごと”に費やしているのに対してリプ主が「もったいな」と「非難」するのは自己の主張を押しつけていることになる、ということだ。

 (「自分勝手だ」と批判している返信が見当たらなくなっていた。リプライへの返信は「なんでこのリプライ叩かれてんの笑」とリプライを擁護するツイートしか観測できなかった。逃げたのだろうか……)

 人それぞれのお金の使い道があるのに「もったいな」と言うのは「ひどい」。これがおそらく批判の第一の理由だろう。

 

 ではこの批判にリプ主と擁護する人たちはどのように反論しているだろうか。

 

 

 要するに、「もったいな」という「発言」は「非難」ではなく「意見」「価値観」「主張」であって、元ツイ主を非難する意図はない、ということだ。

 意見や主張の食い違いがあるたびに「多様性」が叫ばれる昨今だ。リプ主や擁護側はこの「多様性」を盾に「自分の考え方をツイートしただけです。価値観が違うからという理由で批判しないでください」と反論しているのだろう。

 確かに、多様性を尊重する立場から考えると、「寄付に10万円使うことに対して、元ツイ主はもったいないと思うそぶりを見せていないが、私だったらもったいないと思ってそんな行動できないだろう」という考え方は、非難されるべきではない。そういった主張があってもなんら問題ない。

 元ツイ主は「もったいないとは思っていない」し、リプ主は「もったいない」と思う価値観を持っている。ただそれだけのことなのだ。(なお引用したこのリプライはまるでリプ主の価値観が「もったいない」かのようにミスリードできる文章を敢えて書いている)

 

2.「もったいな」という「クソリプ

 ではこのもやもやした気持ちの所在はどこか。それはおそらく、「わざわざそれ言う必要あるか?」というクソリプ感”だろう。

  おそらく寄付の報告ツイートをした元ツイ主は、多少の自己顕示欲があったものの(

 https://twitter.com/the_m_r_p/status/1277446703612755970?s=20 )、自らの"推しごと"に対して満足感を抱いていただろう。10万円という金額は多くの人にとって日常的なものではなく、勇気のいる決断だったかもしれない。そして実行に移し報告したところ思わぬ反響があり、バズったのだ。このツイートを見て「自分もいくらか寄付金に充てよう」と思い立ったひともいるかもしれない。自治体への寄付という行為は公共の福祉に役立てられその社会の利益になるため、その社会に属する者は喜び称賛する。また謙虚や献身的な態度は尊敬されることが多い。ゆえに、この元ツイへの返信はツイ主の行動を称賛する内容が多くを占めている。

 そこへ「もったいな」だ。このリプを目にした人の多くは、まず「自分(たち)との価値観の違い」に違和感を覚え不満を抱くだろう。しかし、多様性の観点からその価値観に理解を示す。「オーケーオーケー、寄付がもったいないと思う人もいるよね」と意見を尊重するのだ。別に私も「寄付金がもったいないなんてこいつ間違ってんな」と思っている訳ではない。その脳内での諫言を終えて次に湧き上がってくるのが、「なんでわざわざこんな返信してんこいつ?」という疑問なのだ。

 バズっているツイートに対して唐突に「私は~~って思います!」と返信するのは(元ツイの内容にもよるが)自己主張の激しい人によるクソリプと呼ばれることが多い。なぜならそのリプライの存在は元ツイありきであり、誰からも求められていない自分の意見を主張するために他人のバズりを利用しているかのように見えるからだ。

 また、相手を突き放したような表現も非難される原因にあると考えられる。見ず知らずの他人の行動を見て「もったいな」と声を掛けることは「失礼」と捉えられて当然だろう。もし「その行動、私はもったいないと思います」といきなり提言したとしても、不審がられることは間違いない。

 さらに、「もったいない」という言葉の裏にある主張も非難される原因として考えられる。「もったいない」という単語は、「物の本来あるべき姿がなくなるのを惜しみ、嘆く気持ち」を表し、「一般的に『物の価値を十分に生かしきれておらず無駄になっている』状態やそのような状態にしてしまう行為を、戒める意味」に用いられる(引用元:wikipedia もったいない - Wikipedia )。つまり、たとえリプ主が「私はこの行為をもったいないと感じる価値観を持っていると主張しただけだ」と言っても、元ツイ主に向かって「もったいな」と発言している時点で、「あなたの行為はお金の価値を十分に生かしきれておらず無駄なものだから、私は嘆いており、あなたの行動を戒めているのだ」と主張していると捉えられうるのだ。それでも「自分のお金に対する価値観を踏まえて意見を伝えたまでだ」という、リプライの正当性自体は担保されるだろう。ただ、結果的に波紋を呼ぶような文体でわざわざ返信する必要があったかを説明しきれていない。「もったいな」と実際に口にして、TLに戻れば済む話だ。なぜ非難されうる文言をわざわざリプ主は送信したのだろうか。

 

3.クソリプは「悪い」のか――「フォークウェイズ」の理論から考える

 その前に、Twitterは自由な発言の場であるから、自分の意見を言ったってクソリプ送ったって、別にいいじゃないか」という反論に答えなくてはならない。

  さっきから「~~が多いだろう」とか「多くは~~」とか、多数派はどう捉える(だろう)かという観点からリプライの分析をしてきた。そのため「じゃあマイノリティは黙ってろって言うのかよ」という指摘が考えうる。

 この議論は難しい。それこそ「価値観」の問題だからだ。

 まず大前提として、各人の意見は多様であり、誰もその主張を根拠なく抑圧することは許されない。どんな主張も言論の自由の権利によって保障されるべきだ。また、Twitter自体がユーザが思ったことを即自的に発言するシステムを備えており、しばしば「感情のトイレ」と形容されるように取り留めもない文章がTwitterを通じてインターネット上に放出されている。そのためどんな「偏った」意見や主張も平然と存在すべきなのが現代の「言論の場」としてのTwitterのTLだろう。

 しかし、そんなTwitterでも発言が規制される場合がある。その一つに権利の対立の観点がある。

 これはTwitterに限らずすべての発言が世に放たれたときに持ちうる可能性である。例えばある発言が言論の自由の名の下に特定の人物の名誉を棄損したとする。あるいは、個人情報を拡散するなどプライバシーを侵害したとする。この場合、発言者の「言論の自由」という権利と発言によって損害を被った人物の権利とが対立することになる。ケースバイケースだが、他人の権利を侵すような言論は規制されうるのだ。

 では今回のリプライは元ツイ主の権利を侵害しているだろうか。答えはノーだ。しかしもう一つの規制条件に抵触する可能性はある。それは、「マナー違反」だ。

 わかりやすく「マナー」と書いたが、具体的(専門的)には「フォークウェイズ(folkways)」だ。サムナーが提起した概念で、「欲求を充足しようとする努力から起こってくる個人の習慣であり、社会の慣習である」と定義される。ある欲望を充足しようとして試行錯誤を繰り返したのち、ある適切な手段が選択され習慣となるが、これはある集団内で同一となり、普遍的・強制的な力をもって伝統・模倣・権威を通して若い世代に学習されるようになる。このように進化論的な生存競争を背景に、集団的に選択された最適な方法が「フォークウェイズ」だ。また、フォークウェイズが集団ごとに異なり、自集団のそれを唯一正しいと思い、他集団のそれを蔑むことがエスノセントリズムに繋がるともフォークウェイズによって指摘されている。

 Twitterは見知らぬ他人の意見を頻繁に目にすることのできる独特な「社会」であるとすれば、そのユーザは自己の価値観に基づいて主張をするという「欲望」を満たす際には「見知らぬ他人に見られても良い伝え方を用いる」ことが「適切な手段」として「選択」されるとサムナーの分析を応用できる。しかしどのような伝え方が「良い」伝え方なのかは、その集団の習慣的に獲得された「価値観」に基づく判断に依存している。もし同じ集団に属するひとであれば、ある主張を「悪い」伝え方で文字にするのは(自主的に)規制されるだろう。その主張が規制されるのではなく、その「悪い」伝え方が規制されるのだ。この理論に基づけば「クソリプ」が生まれる原因も理解できる。すなわち、クソリプ」を送る側の集団ではそれは「クソリプ」と見なされていないのだ。クソリプ」を送る側と送られる側の「フォークウェイズ」が異なっており、また送る側は自分の「クソリプ」を送るという方法が「良い」と判断されうる集団に属しておりそのフォークウェイズが「唯一正しい」と思っているため、平然と「クソリプ」を送ることができるのだ。端的に言えば「クソリプ」はエスノセントリズム的な行為と言えるだろう。「マイノリティは黙ってろ」ではなく、「その意見の伝え方、お前らのうちでは許されるかもしれないが俺らからしたらヤバいやつって思われるぞ」なのだ。

 多くのひとが目にするバズったツイートのリプ欄は、それこそ多様な集団に属するひとが目にする。そのような場では、「自分の主張をするにしても波風立てない伝え方」がフォークウェイズとして選択されているのだろう。そしてフォークウェイズに反した、まるで元ツイ主を非難しているかのように捉えられうる自己の主張の伝え方が、反感を買った原因と考えられるだろう。

 

 私のこの分析の一助となった一連の会話を連続して貼って見てみよう。

多様性の観点から、「もったいな」と思う価値観の否定はリプ主によって蚊帳の外に置かれる。

 しかし、会話の相手はリプ主の価値観を否定する訳ではなく、「発言」が「客観的に見て」「恥ずかしい」と評価している。この「客観的に見て」という表現は、「多くのひとが目にすることが明らかであるリプライ欄で」と読めばより正確だろう。そして「恥ずかしい」というのが、「バズったツイートのリプ欄におけるフォークウェイズ」に基づいた、「もったいな」に対して抱く共通の価値観なのだ。

 リプ主はリプライが「恥ずかしい」と判断されることに気づいていなかったようだ。これは自分の所属する集団のフォークウェイズが多くの人が所属する集団のフォークウェイズでも適用されるという確信から例の発言をしていたことを裏付けている。その後、自分の価値観を改めて主張しているが、いまいち指摘の内容を理解していないように見える。指摘者は「リプ主のもったいないという価値観」を「恥ずかしい」と言っているのではなく、「公衆の面前で初対面の相手に不躾な態度で突然自分の主張を伝えること」を「恥ずかしい」と言っているのだ。

 「自分の意見を言うこと」自体はなにも「悪く」ない。しかし、「見知らぬ相手に突然自分の価値観を無作法に伝えること」が、「バズったツイートのリプライ欄」という開けた集団において「悪い」と判断されうるのだ。そしてそれをリプ主は理解していないのだった。

 

4.なぜ「もったいな」と返信し(てしまっ)たのかという不思議

 最後に、なぜリプ主がこのようなリプライをしてしまったのかについて考察したい。

 まず、「マナー違反なリプライ」であることに気づかなかったのかという点だが、

 相手(元ツイ主)が傷つくという指摘をされて上記のような返信をしていることを踏まえると、自分の思ったままの意見を率直に伝えたものと考えられる。さらに、

 

 どうやら「自分を突き通す自分」をアピールするためにツイートしたものでもないのだという。

 おそらく、本当に「自分だったら10万円を自分か自分の信頼した相手以外のためにすべて使うなんてことはもったいなくてできないな」という思いを、なぜかリプライとして本人に「もったいな」というつっけんどんな言い方で送信してしまったのだろう。

 

5.最後に

 ちなみにだが、10万円をすべて寄付することに関して「もったいない」と判断する根底にはM・ヴェーバーの言う「目的合理性」があると考えた。ヴェーバーの『社会学の基礎概念』に出てくる「目的合理性」は、ある目的に対して適切かつ無駄のない手段を選択するという合理的な理性の特徴のことだ。目的と手段が繋がっており、最適な手段を探すことが重要になってくる。この「目的合理性」とセットで出てくるのが「価値合理性」だ。「価値合理性」は、手段とは関係なくある価値を追究するという理性の特徴だ。どちらが「良い」という「価値判断」は避けるが、ヴェーバーと言えば資本主義にみられる合理性の追求と官僚制、「精神なき専門人」を記述したひとであり、この官僚制が後にH・アーレントらによってナチス強制収容所における支配体制(例:アイヒマン)の構造的原因とされることを考えると、「価値合理性」も大事にしていきたいという気持ちを私は抱く。

 おそらく「10万円を自分の満足する目的に費やす」という目的は、元ツイ主もリプ主も同じに違いない。しかしリプ主の、自分が満足するための手段として自分か自分の信用できる相手にしかお金を与えないというのは、お金を物品の購入に用いて視覚や経験などを通じて直接的に自分の満足に結びつける消費行動を生み出す「合理的理性」に基づいた判断だと言える。対して元ツイ主は、自身にとっては価値のある「推しへの寄付」という、自分が満足するという目的に直接的には結び付かないが本人の追求する価値を得られる「価値合理性」に基づいた行為だと捉えられるのではないだろうか。

 

 (本当に)最後に、参考にしたWebサイトを付しておく。ここまで読んでいただいた方、ありがとうございました。意見、反論、その他あればよろしくお願いします。

意見の多様性を認めないのは多様性なのか問題 | おおたとしまさオフィシャルブログ「Father's Eyes」Powered by Ameba

http://tanemura.la.coocan.jp/re3_index/2K/ka_custom.html

価値合理性と目的合理性(手続き合理性): 菊澤研宗のブログ ダブルKのブログ

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私は素直にこの行為を尊敬します。