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『周縁のマルクス』第2章「ロシアとポーランド」(後半)を読んで

 ケヴィン・B・アンダーソン 著(平子友長 監訳)の『周縁のマルクス――ナショナリズムエスニシティおよび非西洋社会について』社会評論社(2015)(Anderson, Kevin B. Marx at the margins: on nationalism, ethnicity, and non-western societies. University of Chicago Press, 2016.)を読む機会があり第2章「ロシアとポーランド――民族解放と革命の関係」の後半(p102~p131)をまとめたので、ブログに公開して共有しようと思う。

 もし本書を読もうとしている人がいたら参考になるかもしれないが、私は自分なりに咀嚼して雑多な文章にまとめているだけなので、著者の真意を正しく理解するには実際に本を読まれることを強くお薦めする。これは自分のための備忘録である。

 

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<ヨーロッパ革命の「「外側」の温度計」としてのポーランド p102

 

〇(マルクスの)ポーランドへの情熱

 ある「国内的矛盾」をロシア内部の社会変動より先に取り上げていた

:露・普・墺によって分断されたポーランド人民の民族独立を回復するための闘争

 ;この闘争を支持することがポーランドの「民主主義的および革命的大義」をその保守的な対立物から区別するのを明確にさせる役割を果たした。

■「一七八九年以後のあらゆる革命の激しさと生命力とは、……、それぞれの革命のポーランドにたいする態度で測ることができる。……ポーランドは革命の「外側の」温度計なのだ」p102

 

 

ポーランドが世界の資本主義システムの一部となっているために、西ヨーロッパ諸国民による民主主義の獲得と同時にポーランドは解放される とマルクスは考えていた

■「ポーランドポーランドで解放されるのではなく、イングランドで解放されるのである」p104

 

 

・また『共産党宣言』において、(マルクスエンゲルスは)「労働者は祖国を持たない」「諸民族が国々に分かれて対立している状態は、今日すでに消滅しつつある」と声明した後に、民族問題の重要性が継続することを、「ポーランド」の名を出しながら指摘している

プロレタリアートが政治的支配を獲得することで、一民族による多民族の搾取も終わる

 

・1848年2月にはポーランド記念祝典で演説を行い、そこでポーランド民主主義協会の蜂起が共産主義的だと非難されたことを批判している

マルクス共産主義を「階級存在の必然性を否定し、あらゆる階級の廃止とあらゆる階級的差別の廃止を望んでいる」と把握し、ポーランド民主主義の活動は「社会的階級間の政治的差別をなくすことを望んだにすぎない」「それぞれの階級にたいして平等の権利を与えることを望んだ」だけだと共産主義的活動ではないとしている

 

マルクスポーランドの解放を「ヨーロッパのすべての民主主義者の名誉にかかわる問題となった」と結論づけている

■「クラカウ革命は民族の大義を民主主義の大義および被抑圧階級の解放と一体化することによって、全ヨーロッパに一つの輝かしい規範を示した」p106

 

 

・1848年夏にはプロイセンによるポーランド併合を承認するドイツ国民議会の決議に抵抗

■「ドイツ人民の健全な部分は、ポーランド民族をふみにじることに参加することを欲しないし、また参加できない」p107

 

・また、ポーランド分割はドイツとロシアを結合させたもので、ドイツ全体を支配しようとする保守的なプロイセンの土地所有者の強化と民主主義的運動の弱体化を進めたと新聞に寄稿した

 

エンゲルスの「一時的誤り」

・(初めは)マルクス同様プロイセンによるポーランド併合に強く抵抗していた

 ;ドイツがロシアと同盟を続けるなら、ドイツの民主主義者はロシアに対して戦争を宣言し、ポーランドと同盟する必要があった

・しかし1851年マルクス宛の手紙でポーランド人の闘争の重要性は過大評価だったと記述

■「ポーランド人はもうだめになった民族で、それが手段として利用できるのも、ただロシアそのものが農業革命に巻き込まれるまでのことだ」p109 「暴言」ともとれる意気消沈さが窺える引用

 

マルクスは返答していない

ポーランドについての次の著作で民族解放を支援する立場に戻った

 

〇小まとめ

マルクスは熱心にポーランドの歴史を学んだ。彼はポーランドへの支援を「一七八九年以後のあらゆる革命の激しさと生命力」を測る「「外側の」温度計」だと特徴付けて、ポーランドの民主主義的活動に支援し続けた。



<一八六三年のポーランド蜂起――「革命の時代がヨーロッパで再び始まった」>p113

 

1861年ポーランド蜂起について

マルクスは最大規模のポーランド蜂起を、より広範なヨーロッパ革命の先駆として見た

■「今やふたたびヨーロッパに革命の時代がりっぱに開けたということだけは確かだ」p113

 

エンゲルスポーランドに関する『宣言』を共同執筆することやパンフレットを書いてドイツの出版社に渡すことを提案しており、ここでもポーランドにおける運動の支持をする

;「国家」プロイセンを「片付ける」べきだと主張、ポーランドにわたってロシアとプロイセンに対して戦うような、ドイツ人部隊をロンドンで創設するのを助けたいと主張、海外のドイツ人労働者たちの間でポーランドのために資金を調達しよう努めさせつつ、ドイツの自由主義的政治家がポーランドを支援しなかったことを酷評するビラを配布

 

・この蜂起は最終的に鎮圧されるが、マルクスはこの蜂起は主要な歴史的転換点であったと判断し、社会主義運動にとって新しい時代の幕が開けたと記している

マルクスポーランドとロシアがヨーロッパ政治に関する認識の中心にあることもわかる

■「……ポーランドの反乱とカフカスの併合とを、僕は一八一五年以来のヨーロッパの二つの最も重要な事件と見ている」p115

 

 

第一インターナショナルの設立

・フランスやイギリスの労働者たちがポーランドを支持する集会を開くことが許可され、ヨーロッパにおける労働者たちの親密な連携が始まった。この成果である第一インターナショナルの設立には、マルクスが大きく寄与していた

・インターナショナル「創立宣言」においても、彼はポーランド問題について言及した

■「……英雄的なポーランドがロシアに闇うちされるのを目のあたりに見ながら、ヨーロッパの上層階級が恥しらずにもこれを是認したり、……愚かな無関心を示したりしたこと、……これらのことは労働者階級に、国際政治の秘密に通暁……することが彼らの義務であることを教えた」p117

 



<インターナショナル内でのポーランドとフランスに関する論争> p117

 

ポーランド問題とフランスの関係に関する議論

・インターナショナル内でポーランド問題が論争になると、フランスとポーランドの関係が議論された (ex. フォックスの声明「誇張されたフランスによるポーランド支援」

マルクスは、フランスのポーランド支援は消極的なものでしかなかったとしている

 

〇ロシアとポーランドに関するフランス政策批判

フランス革命に続いて起きたポーランド蜂起へのプロイセンオーストリアの介入が、フランス革命体制を利したうえに、ポーランドが「抹殺」される要因になった

・ナポレオンがポーランドを十全に回復するのではなく、プロイセンの領土からワルシャワ公国をつくったことを批判

・ナポレオンはフランスにおける革命の再燃をおそれ、独立したポーランド軍の認可を拒否したり、対ロシア戦争時の自らの大隊に配置させたりして、ポーランド人によるロシアに対する民族戦争を認めなかった とマルクスは分析した

・フランスで革命が起きたことを知ったロシアがポーランド人の軍隊をフランスに派遣しようとしたところ、ポーランドにおいて中隊内から革命が勃発した。これをマルクスは「ポーランド人の騒動がフランスを新たな戦争から守った」としている。しかし、1830年フランス革命によって君主となったルイ・フィリップは、ポーランドを守る約束をしていたが後に破った

ルイ・フィリップは植民地戦争においてアルジェリアポーランド人軍隊を派遣しようとしたが、抵抗されてしまう

 

・一連のフランスに対するポーランド人暴動に関して、マルクスは「フランスの伝統的な対外政策はポーランドの独立の回復にとって好ましくないものだった」と述べている

 

〇インターナショナルにおけるマルクスの立場

マルクスポーランドに関して1847-48年にとっていたのとは反対の立場を1860年代までに取っている:初期にはポーランドの解放をプロレタリア革命の帰結として見ていたが、後にはそれをとりわけドイツにおける労働者運動の発展のための条件であると考えた(とフランスの政治理論家モーリス・バルビエが述べている)

 

マルクスの著作はインターナショナル内部での論争を引き起こした

:フランスが一貫して革命的な国だと考えているであろう内部左派の一部に対して、フランスはポーランドを何度も裏切っていることを証明しようとした。加えて、フランスの革命家がポーランドを裏切ることで、自分自身を締め付けて外部の敵による敗北に至るか旧体制の本当の根絶には至らない非常に制限された革命に至るという、革命運動の将来性について意識を向けていた

;民主主義および階級闘争が抑圧された民族性の闘争と提携できないなら、両者ともその目的を十分に実現しないだろうと論じていたように思われる



ポーランドについてのプルードン主義者との論争> p123

 

プルードン主義者との対立

プルードンが1865年に亡くなると、マルクスは彼のユートピア社会主義的経済理論を批判する記事を公開した。するとインターナショナル内部のプルードン主義の影響を受けた数人から反対意見が生じた

;彼らは「労働者は政治的問題に首を突っ込むべきではなく、経済的・社会的問題に専念すべきだ」というプルードンの主張を支持したため、ポーランドの独立問題という「政治的な」問題に取り組むべきではないと感じていた

 

マルクスに依頼されたエンゲルスは、ポーランドに関するインターナショナルの立場を擁護する内容の記事を書いた

■「労働者階級が政治運動に独自に参加してきたところではどこでも、……その対外政策は、ポーランドの再興という短い言葉で表現されてきた」p125

 

マルクスエンゲルスに「ポーランド人たちは……続きを待っている」と評価した

 

・1867年、1863年ポーランド蜂起を記念するロンドン集会において、マルクスポーランドに関する長い演説を行った。そこで彼はポーランドフランス革命やドイツ革命に対するロシアの介入を妨げるという重要な役割を果たしたとしている。

■「ヨーロッパの選ぶ道は、二つのうち一つしかない。モスクワに率いられるアジア的野蛮が、なだれのようにその頭上に襲いかかるか、それともポーランドを再興し、こうすることによって二〇〇〇万の英雄によってアジアからわが身を守り、自己の社会的改造を完成するための時間をかせぐべきか」p128

 



ポーランドに関する最後の著作> p128

 

ポーランド蜂起の先駆性

・1867年以後も、論じる機会こそ少なくなれど、マルクスポーランドの民族解放をヨーロッパの革命政治の中心に置き続けた

■「ポーランドこそ、世界市民的革命兵士としてたたかってきたし、現在もたたかっている……唯一のヨーロッパ民族でもある。……一八四六年ポーランドは、クラカウにヨーロッパでまっさきに社会革命の旗をうちたてた」p128

 

マルクスエンゲルスポーランドの革命家たちの「世界市民」的性格を強調し、パリ・コミューンにも言及している

 

1880年ポーランド革命50周年記念集会における演説でも、ヨーロッパ革命にとってのポーランドの中心性を強調した。

■「そのとき(=イギリスの有産階級が労働者階級の戦闘的組織であるチャーティスト党に対抗するために武力の助けを借りることを余儀なくされたとき)、独立ポーランドの最後の一角クラカウで、一八四六年に社会主義的要求を公然とかかげた最初の政治革命が勃発する」p129

 

 

マルクスポーランド蜂起に関する捉え方の転換

・1848年演説:クラカウ蜂起にいかなる社会主義的志向も認めていない

 1880年演説:クラカウ蜂起を「社会主義的要求」をもった「最初」の革命、

       ;チャーティスト運動はローカルな戦闘的労働運動と特徴付けられている

←この考え方の転換は、晩期のロシアに関する著作に関係している可能性が高い

:ロシアにおける共産主義革命がより広範なヨーロッパの社会主義的変革の開始点として働く可能性について考察していた

;ロシアについても1840年代と1880年代で見解に相違がみられる

 「保守的な後進国」→ポーランドとその支援者の革命的努力が「わがロシアの兄弟たちの無比の努力と結合」するだろう


(引用はすべて『周縁のマルクス』より)