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『朽木谷の自然と社会の変容』第6章「ヤマとタンボを結ぶホトラ」を読んで

 水野一晴、藤岡悠一郎 編の『朽木谷の自然と社会の変容』海青社(2019)第Ⅱ部「山村の暮らしと自然環境」所収の、藤岡悠一郎 著 第6章「ヤマとタンボを結ぶホトラ」を読む機会があったので、まとめながら読もうと思う。

 もし本書を読もうとしている人がいたら参考になるかもしれないが、私は自分なりに咀嚼して雑多な文章にまとめているだけなので、著者の真意を正しく理解するには実際に本を読まれることを強くお薦めする。これは自分のための備忘録である。

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 第6章を読んで。

 

〇草地という植生

 :かつては多く見られた(20世紀初頭には500万haという調査)

  日本(温暖で湿潤な気候)では放置すると遷移が進む

・「半自然草原」:生業や暮らしの中で人々が森林の資源を利用し、森林の植生に対して様々な働きかけを行うことで植生の遷移が押し戻され、草地の状態が維持される

 例:家畜の放牧、餌資源のための草刈り、水田に肥料として投入する刈敷の採集 etc.

  ←朽木の人の生業:稲作、牛の飼育

 

〇ホトラ

・ホトラ:コナラの幼樹で、牛の餌になる cf.ホトラヤマ:ホトラを刈り取った山林

・ホトラを刈る  主に女性が担当していた

 ・低木のうちに刈る ←人の手が届くから、育ちすぎると陰で草木の量が減るから

 ・山焼き 地表面の刈れた草が焼ける程度、むしろ土を肥やすことになる

・ホトラ刈りは8月:他の稲作などの労働との競合が少ない、お盆行司とも関連

 刈り取られたホトラ含む草は、牛の餌(ウシモン)と小屋に敷く草(フマセモン)に分けられた。牛の糞尿と混ざったものを春先に肥料にした。(田んぼ・牛・ヤマの有機的連環)

 

〇ホトラ利用の変化と植生の変化

・ホトラ利用がなくなった原因:①農業機械の普及→牛の飼育の衰退、②化学肥料の普及→ホトラの必要性の低下、③都市への人口流出

⇒植生の変化

 ・ホトラ利用が行われなくなってから、コナラが急激に成長&陽樹が増加

 ・植林産業の発展による広葉樹の伐採、針葉樹の植林

 

 面白いと思った点は、牛の飼育を厩という自分たちの家の中で行っていたことから、当時の朽木の人たちにとって大事な存在であったこと。実家が乳業を営んでおり、朽木の厩に飾られていた牛の絵馬とほとんど同じものが牛舎に飾られているので、親近感が湧いたのと同時に、「大切にする行為の表れ」の普遍性が面白いと思った。また、参考・勉強になった点として、今までの章で何度も議論されていた、「自然と人間の関わり方」についてわかりやすく朽木での例が記してあったと感じた。ホトラは朽木の人々の生業にとって重要なもので、ホトラの収穫を持続させるために山焼きなど「自然への介入」がされていたということは、今までの議論からも理解できる内容だと感じた。また、山のものを牛の餌にしたり田んぼの肥料にしたり、また山焼きをすればホトラを収穫し続けられることを知っていたりと、自然に囲まれた人々の中に蓄積された自然に関する知識・造詣は計り知れないものだなと感じた。以下、疑問に思ったこと。お盆の数日前から収穫したホトラを玄関口に高く積む風習があったとされているが、これはこの風習が「高く積む」という行為の目的より先に生まれたのだろうか?言い換えると、「玄関口に高く積む」という行為は初め何かしらの目的があってなされたもので、それに時期と先祖崇拝の文化が折り重なって「ホトケノコシカケ」になったのだろうか、それとも「ホトケノコシカケ」を作る目的で「玄関口に高く積む」行為が生まれたのだろうか。また、農業機械の普及によって牛の飼育が衰退したとされているが、乳牛や肉牛を飼育するという転換は行われなかったのだろうか。乳牛向き・肉牛向きの品種ではなかったり、それだけの設備を整える土地がなかったのだろうか。せっかく今まで生活をともにしてきた牛を、機械の普及という理由で完全に手放すことがあるのだろうか、と思った。