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『コミュニケイション的行為の理論(上)』第一章 第三節「四つの社会学的行為概念における行為の世界連関と合理性の局面」(部分)を読んで

 ユルゲン・ハーバーマス 著の『コミュニケイション的行為の理論』未來社、河上倫逸・平井俊彦(共訳)(1985-1987)を読む機会があったので、まとめながら読もうと思う。なお、まとめたのは上巻の第一章 第三節「四つの社会学的行為概念における行為の世界連関と合理性の局面」のうちの第三項「『コミュニケイション的行為』概念の暫定的導入」部分(143ページ19行目~152ページ17行目)である。

 もし本書を読もうとしている人がいたら参考になるかもしれないが、私は自分なりに咀嚼して雑多な文章にまとめているだけなので、著者の真意を正しく理解するには実際に本を読まれることを強くお薦めする。これは自分のための備忘録である。

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 第三節「四つの社会学的行為概念における行為の世界連関と合理性の局面」内の第三項「『コミュニケイション的行為』概念の暫定的導入」を読んで。

 

〇「コミュニケイション的行為」概念の特徴

行為者の世界との連関そのものを映し出す 言語 という媒体がもう一つの前提条件として現れる (cf. 存在論的前提?

・目的論的行為:自分の効果を目指す発話者たちが相互に作用するときに通じる媒体の一つだと評価、志向的意味論の基礎となる言語概念

・規範規制的行為:文化的価値を伝承し、合意を生み出すための媒体だと前提、文化人類学と内容を重視する言語科学で扱われる文化主義的な言語概念

・演劇的行為:自己演出の媒体として前提、「命題的要素の認知的意味と発話内的要素の相互人格的意味は、それらの自己表示的機能のために弱められてくる。言語は様式的および審美的な表現形態に合致してくるのである」p144 ℓ15

・コミュニケイション的行為:完全な了解の媒体として前提、話し手と聞き手があらかじめ解釈されている生活世界の地平から、同時に客観的、社会的、主観的世界のなかの何かに関係し、共通の状況に関する規定を取り扱うことができる、形式的語用論をめぐるさまざまな努力の基礎となっている言語概念

 

・コミュニケイション的行為以外の3つの行為では言語は一面的に捉えられている

←それぞれの行為によるコミュニケイションの類型の仕方がコミュニケイション行為の極端な事例であることからわかる

;各行為モデルはコミュニケイションを……と考えている

 ・目的論的行為:ただ自分の目的を実現することのみを考える人々の間接的な了解

 ・規範規制的行為:既存の規範的同意をそのまま生かすだけの人々の合意的行為

 ・演劇的行為:観衆を引きつけるための自己演出

;3つの行為ではそれぞれ言語の一つの機能だけが主題となっている

(それぞれ発話媒介的効果の創出/相互人格的関係の創出/体験の表示)

;コミュニケイション的行為は社会科学上の伝統を規定するもので、あらゆる言語機能を考慮する

 

・社会的行為がコミュニケイション参加者の解釈の作業に還元され、行為が言語に、相互行為が会話に同一視される危険もあるが、言語的了解は行為の企図や目的活動を相互行為に結び付ける「行為調整のメカニズム」に過ぎない

 

〇「コミュニケイション的行為」の概念の暫定的な導入

⒜自立的行為の性格に関する見解、⒝了解過程のなかで行為者のとる反省的な世界連関に関する見解

 

⒜自立的行為の性格に関する注釈(行為、身体の運動、作業) p145 ℓ18

*命題的内容と相互人格的関係の提出と話者の意図を同時に表現する言語行為の複合性の段階を特色づけたい

ハーバーマスは「分析的言語哲学における規則遵守の概念は狭く捉えられすぎている」という指摘を適切だと考えている

・行為者が少なくとも一つの世界にたいし(だが、つねにまた客観的世界にたいし)それによって関連する行為のみを「象徴的表現」と呼ぶ

;これらの行為と「身体的運動」や「作業」は区別される

;行為のなかで付随的におこなわれるもので、ただ副次的に、遊戯または学習実践に組み込まれることによってのみ、行為の自立性を獲得できる(その運動自体を意図して運動がなされた場合のみ「行為が自立している」と言える?)

 

◇身体的運動について

身体的運動は「行為のおこなわれる基体」であり、行為者はその運動で世界に変化を与える

:「行為は一つの有機体の身体的運動としてあらわれる」

;この変化は因果的なあるいは意味論的な性格を持つ場合がある

・基礎的行為としての身体的運動:ダントーの周囲における論争、身体的運動はそれ自体が本来的な行為であるとする考え方を前提にしている

;複合的な行為は、他の行為の遂行によってなされるという特色がある ハーバーマスはこの考え方を誤りだと考えている

・身体的運動は行為の要素だが、けっして行為そのものではない、技術的または社会的行為規則に従う場合、行為者は運動を付随的に行っているにすぎない

 

◇作業について

その非自立的な行為の性格では身体的運動と作業は同じ

:思考作業と言語作業はつねに他の行為の中で付随的におこなわれる

;せいぜい練習の枠内で自立化して行為となる

:われわれは作業によって計算や命題のような抽象的なものをつくりあげるが、ふつうそれらによって課業や命令といった別の行為をおこなう

・作業そのものは、世界にかかわるものではない;他の行為の基盤としてのみ世界と関わる

;作業でつくられるもの自体は正しさ、規則正しさ、整合性の多少を判断することができるが、行為とは違って真理性、有効性、正当性、誠実性のもとで批判できない

←作業の規則が作業によってつくられたものの生成を説明することに役立ちえないことからわかる ;計算が正しくてもその計算がなぜされたかを充分に説明できない

:この規則に従うことは行為の規則に従う場合とは異なり、行為者が世界のなにかに関わったり行為を動機付ける根拠と結び付いている妥当の要求に定位することを意味しない

 

⒝コミュニケイション的行為における反省的世界連関 p149 ℓ2

・コミュニケイション的行為のばあい、言語はただ、発話者が了解を目指して命題を用いて世界と連関をもつという語用論的視点のもとでのみ、その重要さを持つ

;目的論的/規範規制的/演劇的行為のように直接的な連関を世界ともつのではなく、反省的な仕方で世界と連関をもつ

;このとき三つの形式的世界概念は一つのシステムに統合され、このシステムを共通に一つの解釈の枠として前提して発話者は了解を遂げることができる

→発話者は三つの世界と直接に関連せずに、批判可能な状態で妥当を要求する主張ができる

・了解が行為を調整するメカニズムとして導入されるのは、この相互行為の参加者たちがお互いに掲げる妥当の要求を相互主観的に承認し合うという仕方が行われたときのみ

■「コミュニケイション的行為の概念は、言語をある種の了解過程の媒体として前提し、その過程のなかで参加者たちは一つの世界に関係することによって、相互に妥当性の要求――承認されたり反論されうる――を掲げるのである」p149 ℓ15~

 

〇コミュニケイション的行為の前提

コミュニケイション的行為の前提には、「相互行為の参加者が協力して合理性の潜在力を了解という目的追求のために動員する」ことがある

・了解を目指す行為者の発言に暗黙裡に掲げられるべき三つの妥当の要求 p150 ℓ3

①述べられた言明は真である(言明または存在条件に対する真理性)

②言語行為が 妥当する規範的コンテクストとの関連において正当である(正統に規制される行為とその規範的コンテクストに対する正当性)

③発話者は明白な意図を、その発言されているとおりに考えていること(主観的体験の表明に対する誠実性)

→コミュニケイション的行為の概念によって、今まで社会科学者によって分析されていた行為者と世界との三つの関係が、話し手と聞き手自身の観点から再び認められ、行為者自身によって合意を求めて真理性・正当性・誠実性と照らし合わされる

 

・これらどの了解過程もすべて、文化的にあらかじめ決まっている基礎的了解を背景におこなわれる;この背景知識は全体として問題にはされず、ただ相互行為に参加する人々が自分の解釈のために利用し主題とする蓄積された知識の一部だけが検討される

;相互行為の行われる状況を定義することで、一つの秩序が生まれる。コミュニケイションの参加者は三つの世界のうちのそれぞれに行為の状況のもつさまざまな要素を関連させ、あらかじめ解釈された生活世界のなかでの現実的行為の状況を具体化する。相手の状況の定義が自分のものとはっきりずれがあれば特殊な問題が生じる。

・解釈の課題は、表現方法を検討しながら「われわれの生活様式」という背景のまえで「かれの」外界と「わたしの」外界とが「世界」に照らして相対化されうるし、相互に背反している状況の定義であっても充分にカバーし合えるようなやり方で、他人の状況解釈を自分の状況解釈に関連づけること

;この際の関連づけはエスノメソドロジー(人々の‐方法論)の像に近しい

 

・コミュニケイション的行為モデルでは行為とコミュニケイションとは同じではない

:あらゆる行為概念において目的論的構造が基本的であり、行為者は相互に了解し合い自分の行為を調整することによってそれぞれ一定の目的を追求するもの

←社会的行為の概念はさまざまな目的志向的行為に対してどのような調整を行うかで区別

;心的な効用計算が相互に作用するのか、文化的伝承や社会化によって規制されて価値および規範について社会的統合化の同意がなされるのか、公衆と演技者の間で合意の関係が生まれるのか、協同して解釈する過程という意味で了解が行われるのか

 

・コミュニケイション的行為は、解釈的に行われる了解の行為とは一致しない

:ある行為者がする言語行為を分析するとき、コミュニケイション的行為の調整のための条件については、言明された言葉の意味を理解するために、その言葉が聞き手にはどのような意味をもつかを示すことで説明が可能になる。しかし、コミュニケイション的行為を特徴付けているものは、言語行為によって調整されるが、それに一致するものではない相互行為の一類型といえる。

 

 

読んでから思ったこと。

まず、コミュニケーションというものはどういう目的をもって行われるべきなのか(了解志向的であること)ということを知るだけで、日常的な対話ややりとりを行うときに考えさせられること、意識すべきことがかなり変わった。そして日常のあらゆるコミュニケーションにおける了解過程とそれを疎外する「システム」に気が付くだけで、心の持ちようはだいぶ変わる。そしてコミュニケーションの三要素、「客観的真理性」「規範的正当性」「主観的誠実性」というのは本当に大事だということを痛感したこともある。このことを知っているだけで「納得のいかない主張や言論」に出会ったときの評価基準として武器になる。

ただ、ゼミで議論したときに指摘されたことだが、障碍者のようなひとはハーバーマスの議論においては了解志向的なコミュニケーションをとれない対象とされてしまう。理論に徹した社会学・哲学の一種の運命だが、想定される社会における「人間」がマッチョイズム的な要素を帯びており、その点においては検討すべきである。