桝潟俊子の論文「山村の観光開発による生業と生活の変容:福島県下郷町大内・中山地区を事例として」(1998)を読む機会があったので、まとめながら読もうと思う。
もし本論文を読もうとしている人がいたら参考になるかもしれないが、私は自分なりに咀嚼して雑多な文章にまとめているだけなので、著者の真意を正しく理解するには実際に本を読まれることを強くお薦めする。これは自分のための備忘録である。
引用:桝潟俊子. "山村の観光開発による生業と生活の変容: 福島県下郷町大内・中山地区を事例として." 淑徳大学社会学部研究紀要 32 (1998): 149-177.
なおGoogle ScholarからPDFをダウンロードして閲覧することができる。
以下、論文を読んで。
概要。
農林業を基幹産業として生産・生活を組み立てることが困難になった農山村では、地域活性化のために観光開発に乗り出すことを余儀なくされている。この観光開発と農林業を組み合わせた自治的・環境保全的な農山村再生は可能なのか。福島県下郷町にある大内地区と中山地区で現地調査を行った。宿場町だった大内地区はその観光資源に気付き新たな生業として観光開発を行うが、従来の農林業を含む地域文化の継承はどうするべきなのか。中山地区は観光資源に乏しく過疎化と高齢化が進み、生業となるものが失われつつある。豊かな自然を資源として観光開発に乗り出すべきかどうか。
以下内容。
〇農山村の問題
・中山間部の農山村は、農林業を基幹産業として生活するのが困難に
;1986年 ウルグアイ・ラウンド合意に基づく米など農産物の輸入自由化の促進
→都市住民の余暇需要拡大を背景とした大規模リゾート開発計画
→バブル崩壊にともなう中止
・それでも農山村は観光開発に期待せざるをえなかった
;「四全総」において農山村は、都市住民のレジャーや観光、安らぎの場としての機能をもち、かつ定住の場としても成り立つ社会経済構造をもつことを求められた
〇下郷町の問題
・過疎化
1955年の合併以降、過疎対策のため各種事業の導入が図られる
;1981年 工場誘致条例を制定、電子部品製造企業等を誘致 →しかし人口減少は進行
・地域振興計画:「三全総」に基づいて1984年策定(1995年目標)
「地域産業を高めながら、定住環境条件を整備し、開かれたふれあいの里を」つくる
1988年会津フレッシュリゾート構想がリゾート法第1号に承認、大内・中山地区が重点整備地区
;観光産業への期待の背景に、町の産業構造における農業地位の低下、商業機能の停滞
〇リゾート開発の行方
・下郷町「大内・中山地区」のリゾート開発
・スキー場 ゴルフ場 スポーツ施設(テニス、アイススケート) ホテル コテージ 等
;乾草刈り場として使われていた共有地や財産区である山林が計画地に含まれていた
・大内地区:消極的;中山地区の開発がかかわっていたため仕方なく積極的に
・中山地区:積極的;炭焼きや林業が斜陽となりスキー場建設を望んでいた
・建設計画の経過
・下流域の住民から汚染水への懸念により自治体等に開発中止の申し入れ
・防災施設の予期以上の拡大に伴う計画の見直し
・バブル経済の崩壊
→1994年東宝グループの撤退(これまでの経費約10億円を負担)、会社は休眠状態
・町は第三セクター方式の開発を断念しておらず、グリーン・ツーリズムの潮流に乗せた農村滞在交流型リゾートとしての村づくりを構想している
〇大内地区について
・かつての会津西街道の宿場町(大内宿)と県道沿いに集落が形成(総戸数:50)
・大内宿は国選定「重要伝統的建造物群保存地区」で年55万人の観光客を集める
・年少人口(20歳未満人口比率)は28.6%と高く、嫁不足問題はない
・ほとんどの世帯が直系性家族周期をもつ家族形態;既婚の子供と同居している世帯は7割
〇中山地区について
・西側に緩やかな山をもち県道沿いに集落がある(総戸数:22)
・町の中心部まで車で20分要するため道の拡幅整備や拡張工事を求めている
・老年人口比率が35.0%、年少人口比率が15.0%と低く高齢化が進んでいる
・直系家族タイプの世帯が多いが、後継者となる既婚の子供と同居している世帯は半数
;半年近く雪に閉じ込められ、高齢化と過疎化が進む中山地区の人々は、若者が帰ってこれる地区を開発するためにスキー場建設など開発・振興策を町に期待している
〇大内地区の生業の変化
江戸初期 :会津西街道の宿場町として栄える
1880年代 :新たな街道の開通から宿場町機能を失う→炭焼きや木羽板割をして暮らす
明治末期~大正(1900-20頃):葉タバコの栽培、養蚕が村の生業の柱になる
→しかし冬期は出稼ぎをしなければ生計は成り立たなかった
1972年頃~:葉タバコが高原大根に切り替わる;土質と気候が適合した
→しかし連作障害を引き起こし栽培されなくなった
同時期:大川ダム建設に伴う新たな賃金獲得機会の発生;労働力、炊事など
→荒稼ぎできるようになり「百姓仕事が馬鹿らしく見える」、
基盤整備によって畑が悪質化 ⇒農業意欲の減退
1980年頃~:リンドウ栽培を始める←村の若い層のなかに率先して導入する存在
→大内地区の基幹作物に;「結」の復活も見られる
1960年以降:高度成長に伴い農家数は減少、90年には60年の1/3に
;民宿などの観光事業や周辺の市に通勤する人口が増加;耕作放棄の増加
1996年現在:耕作している世帯のうち4割が自営農業で、専業農家は1割程度
農林業と観光業が主な生業で、周辺地域での就労と組み合わせて生計を立てる
(観光業が生業として成長しつつあるが地区の農業の需要も増えるのでは…)
・大内地区民の農業に対する姿勢
・「農業を後継させたい」と考えるひとが半数を超える
・「山林をもっている」ひとが9割を超え、そのうち3/4が造林やきのこ栽培に利用
〇中山地区の生業の変化
~1880年代:大内地区と同様;新しい街道の開通で人の行き来が減少
→焼いた炭を里に売り、米や魚、衣類などを買って帰る生活
1914年~ :葉タバコの栽培を始める;当時20戸が行い、現在も2戸が続ける
;炭焼き、インゲンやトマト、大根栽培も行われたが葉タバコが残った
;1960年頃 酪農が導入されたが続いていない
;基盤整備がされていないためリンドウなどの花卉は栽培されない
農業で生計を立てているのは葉タバコの2戸のみ、4割は自営農家
;高齢化が進み、中山地区の農業は「10~15年もてばいい」と深刻な状況
1996年現在:13/20世帯が周辺地域に出勤しており、農外収入への依存度が高い
・中山地区民の農業に対する姿勢
・「農業を後継させたい」と考えるひとはゼロ;後継者にあてがない世帯が多い
・林業(杉の造林が盛んだった)も80年代からほとんどされなくなったが、
山林を利用して収益をあげる計画をしている世帯も存在している(きのこ栽培など)
;農林業のみで生計を立てるのは困難で、地区外に就労の場を求めている
→道路の整備を強く望んでいる
〇大内地区における観光開発と農林業
・民宿経営じたいはダム建設に伴って1971年から始まっているが、
観光資源としての「大内宿」の魅力は観光客が増えるにつれて気づき始める
;民宿は首都圏の中学校の農業体験の受け入れ窓口やサークル活動に利用される
・「観光地化すれば食べていくことができる」と見通しているひとが多い
:1996年3月の調査で民宿や食堂などを「今後始めたい」と12/30世帯が答えている
「営業の拡大、経営の変更」を考えているのが4/15世帯
:観光客の増加が地域経済の振興や人的交流の拡大に寄与すると考えている調査結果
・観光開発に必要な「建造物の保存」と「景観の保全」
・計画では「伝統建造物群の保存・見学利用にとどまらず、歴史的に培ってきた生活文化を生きたかたちで保存・伝承しながら地場産業の振興と観光利用の共存を図る”ふるさと地域博物館”として整備を進める」とされている
・しかし調査では田畑等の農地や自然景観の保全に関して住民は消極的
・区域を設定しテーマ館や専用の田園風景、マーケットを整備する「超ミニ・テーマパーク」としての開発は本当の意味での生活文化の継承につながるのか?
・地元の農産物を販売して利益を得ることが考えられている
;大内宿で売られている土産品のほとんどが業者から仕入れた民芸品や雑貨だが
自家栽培の野菜などを販売したい/していると考えている家も存在
・一部の民宿や食堂では地元の農産物が食材に用いられたり土産として売られている
⇒景観を保全しながら観光開発を行うには、持続性をもった生業としての農林業や地場産業を起こしていく必要があるのではないか
〇定住意識と生活設計
・大内地区:リンドウ栽培と観光開発、周辺地域への就労から過疎化は起きていない
・(比較的)定住意識がやや高い(82.2%)
・暮らしやすさ:自然や食べ物、人情味、新たな観光業の存在
・困っている事:観光の導入に伴う生活環境の悪化、文化財である家屋の管理や修復
村の行事や祭り、共同作業への負担感
・生活設計:観光事業と農業経営が組み合わされば農業・農産加工が今後も重要な生業に
;3割:勤め先収入、民宿や食堂など 二つの兼業を考えている世帯も存在
15%ほどが「農業や農産加工を中心に生計を立てていきたい」と回答
・中山地区:農林業が衰退し、過疎化と高齢化が急速に進行
・定住意識はかなり強い(80.0%)
・暮らしやすさ:豊かな自然
・困っている事:交通の便の悪さ(深刻)
・生活設計:生業となるようなものがほとんど見当たらない状況
;勤め先収入と年金収入で生計を立てる予定の世帯が7割
農林業で生計を立てたいと考える世帯は2世帯のみ
→リゾート開発への期待 →頓挫
;「中山地区の住民も地区の自然こそが財産だということに気付き始めた」
:まず地域の環境保全の担い手を確保すべく基幹産業としての農林業を回復すべきでは
おもしろいと思った点。「生業」という単語に、「伝統的に長く続けられてきたその土地特有の生活の術」という印象を抱いていたが、時代の変遷によって生業となるものは変化し続いているものが良いとは限らないし良いものが続くとも限らないことを具体的に知ることができた。
疑問点は、今回の論文では2つの隣接した地域の生活と生業の変化を比較しながら紹介されていたが、2つの地区間での干渉(人の行き来、資源や情報の共有、商業的格差によるいがみ合いなど)は無いのだろうか?また、困窮している地区同士が手を組めば上手くいく計画も考えられると思うが、実現されにくいだろうか?今回は福島県下郷町の2つの地区に焦点を置いて、観光産業と農林業の互助的な発展が可能性として挙げられていたが、日本中(あるいは世界中)の過疎地・高齢化の進む奥地で同様の「自然豊かな景観を生かした観光産業と農林業をどちらも生業とする」やり方が行われた場合、遍在してしまうので観光産業が上手くいかなくなるのではないか/先行きが明るいとは思えない計画ではないか?
<資料>