アンダーグラウンド・ハイドアウト

やりたいことをのびのびこそこそと

「コンテンツを消費するだけになりたくない自分」と「コンテンツ消費を期待される自分」

 先日地元に戻らなくてはならない用事があり1週間だけ実家に帰ることがあった。実家に帰るのは5か月ぶりくらいだった。

 本来ならば3月末から4月頭あたりの春休みやGW中に帰省するつもりだったのだが、近ごろの新型コロナウィルスによる外出自粛要請と、「自分がウィルスのキャリアかもしれない」という自律によって帰れずにいたのだが、やむを得ない用事だったのだ。批判を少しでも避けるために公共交通機関ではなく親の車での移動をしたことで極力他人との接触を回避する努力を徹底したことをいちおう書いておく。

 

 さて地元に着いたのはGWのおよそ1週間後だったのだが、実家にはまだ五月人形が飾ってあった。五月人形は男子のお祝いで、三月三日の桃の節句に女の子がいる家庭で雛人形を飾るように五月五日の端午の節句に飾るものだ。ウチは男女どちらもいるきょうだいなので、どちらの人形もその時期になれば飾ってもらっていた。

 3月と5月には毎年小さい頃から訳も分からず人形の横に座らされきょうだいの写真を撮らされていた記憶があるが、3人とも実家を離れてからも毎年飾っているようで、5月になると写真が親から送られてきていた。今年も例にもれず、こどもの日当日に母親からLINEで人形の写真が送られてきたのだった。

 

 もともと姉の部屋だった場所で大学の勉強をしていたある日、父親から「五月人形をもう片付けてしまうから、写真を撮ってInstagramにでもあげたらどうだ」と声をかけられた。このとき僕は「写真ならお母さんから送られてきたしいいよ」と断った。実際、五月人形Instagramにあげたところで何になる、とも感じた。

 すると父親は僕の断ったのを聞くと、末っ子である僕が社会人になれば人形は出さないつもりである旨を伝えてきてから片付けに向かったのだった。

 僕はばつの悪い気持ちになった。僕は3人きょうだいの末っ子で、いちばん親に甘やかされて生きてきたせいか、親に素直に感謝したり気持ちを伝えることが出来ない。このときもなんだか「またやってしまった」という気持ちになった。

 

 日ごろSNSをよく使う世代に属する自分は、そのSNSに関連して生き方の指針の一つにしているものがある。それは、「コンテンツのために生きるな」だ。

 例えば花火大会に友だちと行ったとして、打ち上げられるすべての花火をスマホのカメラを通して動画に収めようとする仲間がいたら少し嫌悪感を抱く。これは、その場限りの一期一会的な文化である花火を何度でも見れるものにする、という意味で花火への冒瀆として嫌っているわけではない(もちろん少しはその意味もある)。その花火の映像をSNSにアップロードする行為がニガテなのだ。

 花火に限らずカフェで食べた料理、訪れた場所など、個々人の日々の記録とともにそれを象徴する画像や動画はSNSにたくさん投稿される。この目的はおそらく自分の生活を思い出として簡単に記録でき、また思い出すときに視覚情報があると鮮明に思い出せるからだろう。ただ、SNSに特徴的なフォロワーという自分に親しいひとの「まなざし」は利用者の行動に変化を与えているように感じる。「まなざし」によって権力が生み出される構造はフーコーの『監獄の誕生』を参照しよう。

 その変化のひとつは、利用者に華やかな「思い出」を求める点だ。端的に言うと「映え」だ。フーコーに言わせれば、自分に親しいフォロワーという他人を自分に内在化させて、「こんな写真が撮れればちやほやされるのではないか」「素敵な経験をしていると思われるような記録を残した方が良いのではないか」と、自分の行動を「フォロワー」向けに矯正させるのだ。ちょうどパノプティコンと同じくフォロワーが自分のことを見ているかは判断できないが、見ていないとは限らず、結果自律させてしまうのだ。

 過度な「映え」を求める社会現象は一時期問題にもなったが、この現象の問題点はそこに「個性」が埋没してしまうことではないかと考えられる。写真や動画に残す「映え」た経験や思い出は、その写真や動画によって追体験が可能なものになり、そこに投稿者はいない。あくまでその投稿者はその経験を写真に残して「消費」した人であり、その投稿者の個性が磨かれたり技術が上がったり、人気になる理由にもならない。

 これが「まなざし」によってSNS利用者に与えられる行動の変化のふたつめで、さまざまなものがコンテンツとして「消費」されてしまう点だ。ある観光スポットに行き、写真を撮ってSNSにアップする。アップされた写真を見てフォロワーは観光を追体験する。もちろん観光地に行っていることが知られることで投稿者の印象に変化が起きるかもしれないし、それは投稿者の予想通り、内在化させたフォロワーの行動と合致するかもしれない。このとき少なくとも「個性」が埋没していないとは言えないかもしれない。しかしこのときこの「観光地」はその投稿者の印象を変化させるための道具として「消費」されてしまっているのだ。

 「手段と目的が逆転してしまっている」という表現もこの事態にぴったり当てはまると考えている。本来花火や観光スポットは、それ自体が目的になるものだ。花火を見に花火大会に行き、観光しに観光スポットに行くのだ。しかしSNSの普及によって、もしくはSNS由来の他者意識によって花火大会は「花火大会に行く自分を記録するための手段として」観光スポットは「観光している自分を見せびらかすための手段として」行く場所・イベントになっている気がしてならなかった。花火大会と付しておきながら自分と仲間の浴衣姿の写真を撮ったり、観光として訪れたはずなのに写真だけ撮って歴史的建造物の説明などには目もくれなかったりする人を見かけると、消費されてしまうコンテンツが不憫でたまらなく思えるのだ。この件で言えば、フランスのルーブル美術館に訪れたときのことを思い出す。有名なモナリザの前にものすごい人だかりができていたのだが、なかなか絵の前にたどり着けない。なぜか。ひとりひとりがよく鑑賞しようとしているのではなく、誰もがモナリザの写真をスマホに収めようと(もしくはツーショットを撮ろうと)場所取りを必死になっていたのが原因だったのだ。

(引用は、「モナリザと”現象”」と付されたツイートだ。展示されているモナリザの近くにいるひとほど、モナリザに背を向けているのが分かる。)

 また、このようにコンテンツを消費することに慣れると、次第に大切な経験や自分の最も近くに感じられることまで、コンテンツとして消費してしまうようになる気がしてならないのだ。一人暮らしを始めて「よし、毎日自炊を頑張ろう」と意気込んで、そのモチベーションにするために毎日作った料理を写真に撮ってSNSに投稿するとする。料理を上達させるために継続する手段としてSNSは利用されることになる。しかしそのうち写真写りの良くなるように飾り付けたり、珍しい料理を作ってみたりしてみるのではないだろうか。この時既に料理は目的ではなく手段になってしまっていて、SNSに投稿するために料理をするようになってしまうと思ったのだ。

 おもしろコンテンツを求めすぎたあまり「本音といえる部分が無くて、心にあるどの部屋を開けても応接間しかない」とダ・ヴィンチ・恐山に評されたARuFaのようには、なりたくないのだ。(ARuFaは好きだ。)

 小林賢太郎NHKの番組「SWITCH インタビュー 達人達」で椎名林檎と対談したときの会話も思い出される。

「僕、脚本書くとき、いつもこの襟のある格好をするんですよ。……別に誰に会うわけでもないから、パジャマで居たって良いんですけど……。だから、『ジェントルマンであろう』じゃないですけど、気持ちを引き締める意味で、……短パンTシャツじゃなくてちゃんと襟のある格好をしよう、ということで僕、一人で仕事をしているときも襟のある格好をするようになりました。なりまして、時間を経て、今日もそうなんです。一人の時間の時にも襟のある格好してるんです。してるんですけども、今(椎名さんと)話してて気づいたことがある。僕は、こうして、人に話をするために、一人でいる時も襟のある格好してたんです」

 コバケン本人も、手段と目的が転倒していることに気づいた時は「カタルシスがあった」と表現し、そんな自分を「ダサい」と評している。(コバケンも好きだ。)

 

 コンテンツを消費したくない、そして「自分」を見失いたくない。そういう動機で僕はイベント時に写真をパシャパシャと撮るのはあまり好きではないのだ。

 

 写真を撮ること自体は好きだ。サークルでは撮影する係をしていたし、自分でも写真のセンスはある方だと自負している。しかしふと目に飛び込んできた風景だとか、日常の些細な光景だとか、ありきたりな表情だとか、そういうものを撮るのが好きだ。これはきっと、自分の気性に合っているのが”そっち”だからだろう。それに、どんなふうに平凡な生活を見ているのかが人それぞれあるだろうから、その見方を反映させれば写真は自ずとその人を表す個性的なものになると思うからだ。これはいま思いついた。

 

 どちらにせよ、僕はイベント事を写真に残してSNSにアップして「消費する」という行為を忌避してきていた。厳格にルール立てているわけではなく確かに記念に2,3枚は撮ったりもするが、SNSにアップすることはなるべく避けている。

 

 しかし、今回の五月人形の件はどうなのだろうか。

 父親はきっと、コンテンツとして消費していいから、五月人形を息子に見てほしかったのではないだろうか。むしろInstagramはただの口実で、直接見てほしかっただけなのではないか。

 父親は去年まで携帯電話を持っていなかった。去年初めて自分のスマートフォンを手に入れたが、遠出するとき以外は携帯しない。父親から僕に電話がかかるときはいつもイエデンからだ。父親は昔からPC派なのだ。メールのやり取りや調べ事は常にPCで済ませていて、母親が(対照的なのだが)だいぶ昔からスマートフォンユーザなのをいいことに外出時の連絡は母親にまかせっきりだったからだ。SNSFacebookしか使っていない。しかし、最近は好きな女優(土屋太鳳)の情報を追うために、アカウントは作らないもののTwitterInstagramを覗くようになったようで、ついでに僕のアカウントもときどきチェックしているらしい(僕は息子として問題ない投稿を心がけているし、きっと覗いていることを知られていることは知らないだろう)。

 おそらく本格的にSNSにのめりこんでいない父親は、客観的にInstagramの投稿から、「五月人形Instagramに投稿されうるようなseasonalなイベントだ」と判断し、あの提案に及んだのだろう。もちろん遠回しに「お前のInstagramの投稿はお父さんも見ているんだぞ」という示唆でもあると思う(これはどうやら僕のアカウントを見つけた時期から増えたものなので確信がある、こどもの勘というやつだ)。そして僕は「そういうイベント事をコンテンツとして消費するのはキライだ」と断った。しかしずっとモヤモヤしたものが残っているのだ。

 

 僕はまだ自分の子どもをもっていないから推測に過ぎないのだが、親というものは子どもに経験や思い出をたくさん与える役割を担っていると考えられる。これは教養としての経験もあるが、単に血のつながった家族としての絆や団結を強固にするための経験や思い出の「共有」が目的なのではないだろうか。昔は一緒にどこそこへ行ったものだだとか、一緒にあんなものを作ったねだとか、そういう経験は思い出という次元ではなく深くアイデンティティ形成に影響を与えるし、家族の存在が強く”前提”として備わっているものだ。そしてその経験や思い出に限らず家族を大切に思う気持ちを表すものとして、記録に残すための写真や動画が機能しているのではないだろうか。

 こうなると、やはり五月人形の写真を撮るように勧めた父親は五月人形を「消費」するように言っていたことになる。しかしそれは、単にコンテンツとして自分のInstagramを「映え」させるためではない。五月人形の写真の前提にある、五月人形を欠かさず飾ってくれる親の存在と気持ちを記録に、そして思い出に残すように言っていたのではないだろうか。そして僕はおそらく、Instagramにあげずとも五月人形の写真を撮るという行為をとるべきであり、そういう意味では五月人形をコンテンツとして消費すべきだったのではないか。

 

 思い出や経験というものはそもそもがイベントを「消費」することであり、それ自体は悪いことではない。しかし近年SNSの普及によって思い出や経験として「消費」されるものの需要の類型が変化し、SNSの利用者にとっては思い出を「消費」することは目的ではなく、思い出を「消費」することを(手段として)SNSで「消費」するという、「消費を消費する」二重構造になっていたのだ。それに気づかずにいた僕はただ反射的に「コンテンツを消費したくない」という理由で親との思い出の共有・絆を深める行為を断ってしまったのだった。

 

 その次の日からなんとなく「これはいけない」と思い、母方の祖母の家に寄ったり父方の祖母と食事を共にして思い出作りを挽回しようと心がけたが、やはり一度失ってしまった機会を思うと、なんだか気が晴れなかった。

 

 来年こそは五月人形の写真を撮りにGW中に帰省したい。Instagramにもあげようかな。

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母親からLINEで送られてきた五月人形の写真は、保存期間を過ぎていたために保存できなかった。